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自動二輪 最適化案 ステレオタイプ解剖 前輪編

写真は「伸びる 早く」

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2024/04/25 初稿
2024/05/02 追記修正
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 ある日のこと。『原動機付き自転車』の歴史を調べるべく図書館に足を運び、書籍検索をかけたところ結果は全て『原付免許 一発スピード合格!』のような物ばかり。日本の運転免許書の趨勢を占うべくやって来たのだが、所蔵結果にぐったりとし、膝を地に着き、項垂れた。
「ええい、もういい」検索結果が頼れないとなると、そこは人力。自動車関連書棚から己が心眼に叶う物を手にすべく、歩みを進めると……直ぐだった。

・自動車関連図書本棚前 現着
 天啓である。棚を端から端へと捜査線を走らせると50ccの代名詞、ホンダの「凄い野獣の子」こと、スーパーカブに関する書籍が幾つか見つかった。その中から直感にビビビッと来る二冊をむんずと掴み、手近なテーブルにて開闢。
 天啓である。早朝に新聞。まえ株に籠ならぬカブの前。まだ「スーパー」と車名に付帯する以前の純朴なカブの姿がそこにあり、細身のフレーム自転車その後輪軸上は湯たんぽ工場製の白い燃料タンク。後輪軸下50ccの赤き原動機。ペダル有もあり〼ね。ということで文字通り「原動機が取り付けられた自転車」 カブF型が掲載されていたのだった。ブルルン!

・カブF型の開発思想
”今や世の中は、世界をあげてスピードアップされている現状であります。それなのに我が国が今もって自転車を人力により、ノロノロ動かしておりますが、日本といえども、世界の一環である限り、例外であり得る筈はありません。そこで、我が国がスピードアップしたいと言っても、一度に自動車や飛行機に転換することは諸種の条件によて難しいことです
 現在、我が国で最も普及されている乗り物は自転車ですが、これに機動力をもたせて、せめてスピード時代の世界の仲間入りをしていただくために、自動車補助エンジンを考えたのです。これは国内のためのみならず、この種のものでは、海外に輸出出来るものをと、設計にかかりました。先ず取り扱いの簡便なもの、大衆に親しめるもの、見たただけで愉快に感ずるもの、各国人に愛されるもスマートなものでなくてはなりません。さらに自転車が土台になるのだから、目方の軽いことも絶対条件です。その上値段も安く、堅牢な、燃料消費の少ない経済的なものでなくてはなりません。以上のようなことを重点的に考慮に置いて設計にかかりました。
 (中略)
 世界で一番軽い、スマートで、取り扱いの簡便な、燃料消費の少ないことが、カブ設計の狙いであり目的だったのです。自画自賛になるかも知れませんが、カブ号はこれらの全部を満足させ得たものと思います。これなら外国製品より優秀だと断言できると信じます”
☆引用:ホンダ月報1951年8月号 本田 宗一郎

 時代は太平洋戦争後7年目のこと。1952年 5月 静岡県浜松工場からカブF型が日本の野に放たれた。排気量49.9cc 2サイクル 最高出力1ps/3,000rpm 重量6kg トライアル車両顔負けの凄まじい軽さ。当時開発者だった河島 喜好(かわしま きよし)さんの弁。
”浜松は七回の爆撃、二度の艦砲射撃を受けまして、一面焼け野原という有様でした。学校は出たけれども、就職先はおろか、毎日食べる事だけで必死だったような時代です”
「艦砲射撃」 流石戦後直後。出てくる言葉のハードコアの質が現在とは違う。じわじわと締め上げられるそれが今のハードコアならば、戦中を生き伸びた者のそれはヘビー級ボクサーにぶちのめされた後、再び立ち上がるというもので、バトルシップの打撃から生き延びた氏曰く「それ以前の自動二輪車は好事家に向けた高額な乗り物であり、小型で手軽なオートバイを求める需要があり、そこに自転車を母体とするカブF型はニーズと合致」 原付自転車故、ホンダは自転車屋さんにお手紙を沢山書き、そこを軸に販売網を拡大。さすれば業績がぐぐっと伸びたそうだ。
☆参考資料:ホンダ スーパーカブ 世界戦略車の誕生と展開 第7章から

 第二次世界大戦後、欧州で既存の自転車にエンジンを取り付けた『クリップ・オン』が普及した。手近な人力自転車が自動車になるというのは、戦後、洋の西や東に限らず需要があったようだ。尚且つ欧州では免許を必要としないということもあり、手っ取り早い足となったのであろう。日本では制度上『第四種免許』が必要なるのだが、しかしそこには柔軟な対応を取る者が居た。
 通産省は二輪車普及のため『無免許による許可証』制度を、警察庁、運輸省に提言。なんだか「無」あっての「有」というか。禅問答的であるが結果は……。
 1952年(昭和27年)8月1日 『原動機付自転車』が日本にて確立。満14歳で簡単な視力検査で誰でも乗れるという内容。
 戦後、自動二輪車業界は雨後の筍のように様々なモーターカンパニーが誕生した。先進性で他を抜きん出たその後、品質や商品価値を顧客にどう示せられるかという市場原理が働き、数多の会社は競合他社間で吸収合併統廃合が行われ、これはIT業の勃興とその後も似たものであり、業態に限らず商売の宿命、経済活動の収斂化であろう。
 頭に「ア」を付けても意味として正しい程に「ド」のつくベンチャーだったホンダは世界企業に成長した。当時の通産省の対応がなければ前カブの普及台数はもっと少なく、よもすればホンダという会社は企業名を変え、違うものになっていなのかもしれない。バタフライエフェクト効果とは、結果に結びついていた予期出来ない脈動を指すが、これは焼け野原からの適応とその結果である。
「レース サーキット」などまだまだ無い時代、土手の草上にて競い合いグラストラックレースが繰り広げられ、差し詰それは草野球。次に舗装道に変わり、差し詰それはプロ野球。その次には国内から国外へ競争の場を変え、差し詰それはWBCと例えたいのだが、競技人口の多いサッカーにしよう。焼け野原から誕生した世界四大バイクメーカー HONDA / YAMAHA / KAWASAKI / SUZUKIは、文字どおり世界と競争を繰り広げ、その上で生き残っているのが現在である。

「おお、カブよ。カブよ。前カブよ。カブあってのスーパーカブ。スーパーと付く前の前カブよ。この子ありしてホンダあり。原付免許の発足あってのカブがあり」
 しかし、流石に自転車を母体とするままでは性能に限界が。ということで、スーパーカブの開発が進められていく。
 1958年(昭和33年)遂にホンダ スーパーカブ C100が世の中にドロップされる。カブの設計思想はスーパーになっても変わることはなかった。いや、むしろ向上した。細身の自転車からオートバイの進化のあぶみ登り、その形は今なお踏襲され、日本の足となり、アジアの足となり、たけの子族バンブー ピーポーの堅牢で高燃費な足として今もなお移動し続く。カブあってのホンダ。ホンダあってのカブ。本田技研工業は後株の株式会社であるが、同社から発売されたスーパーカブとなると、前にも後ろにも籠の搭載が可能である。
 私が子供の頃、出店で売られているスーパーカブを「飼いたい!」と駄々をこねる子をよく目にしたものだ。心無い飼い主が売り放つということもしばしばで、捨てる神あれば拾う神あり。野に下った野生のカブを拾ってきては「ちゃんと散歩に連れていく」と、親に懇願し、説得するなどもしばしば。我が家ではたまたまそれが猫や犬だっただけで、野獣の子を飼うというのは情操教育でもあり、モータリゼーションのキックスターターでもあるのだ。ブルルン!
 カブの子スーパーは、主食であるガソリンを与えれば文句を言わずによく飲み、良く走り。オイルを交換すれば長く生きたというのも時代に合った。高度経済成長期、アパート暮らしのご家庭に無駄吠えしない縁起の良い亀と、カブは日本の住宅事情、道路事情から診ても打って付けだったのだろう。
 昭和から時代は平成に変わり、品種改良を繰り返すも、スーパーカブはオリジナルから姿形を大きく変えることはなかったが、中身は年々変わり続けていった。
「ECU」「フュエール インジェクション」「IACV」「キャタライザー」「O2センサー」私が呟くこの念仏。読者の皆様はご存知であろうか? 詳しくは私も知らないんだけど、全て地球がホカホカになってしまうことを防ぐ為の物であり、全長2メートルにも満たない凄い野獣の子が現在社会に適応出来るようにと、塾にピアノに空手にサッカーもあれば、環境問題のデモ行進までを詰め込み、ほいでもって、堅牢で、高燃費で、でも他交通の妨げにならない運動性能を授け、尚且つ「安く」提供しろというのは、はっきり言って無謀であり現実と乖離している。
 環境適応問題は日本国内だけの話ではない。マフラーから排気される不燃焼ガスという地球に厳しめのそれは、謂わばマフラーから出たガスで地球の首元をぬくめる、正直物と、ムズイ実験結果は学者だけには見える目に見えないマフラーと化した。
「寒くない? 地球ちゃん♪」何時迄も絶えることなく不思議ちゃんを続けることを許さない『ユーロ5』の壁は分厚く、西洋はリアリズムであり、欧州は環境適応の段位数を3から4。4から5と年々向上させ、検査に合格出来なければメーカーの土手腹に制裁権正拳突きを叩き込み、キック&ターン&パンチ。ケルナグールのコンビネーションで欧州の市場からボコられ、叩き出されてしまう。
「ただ痛いのは嫌だ」色んな意味でシリンダー上死点50ccという狭小なエンジンは限界。否が応でもアクセルを捻る必要があり、エンジンを回さなければ実用的な加速、速度に達することは出来ない。エンジン圧縮率を凄まじく向上させ、出力量を高めるという方法もあるが、唯唯諾諾とガソリンを飲んできたカブは、圧縮比の高まりに「ガックンガックン」と噎せ返り、ハイオク仕様を余儀なくされる心臓に。エンジンのメンテナンスサイクルは競技用のモデルに近づく。それでは経済面や堅牢さから遠のき、日頃の足として使って来たスーパーカブの良さを凄まじく奪ってしまう。一部の改造バカ二代(お父さんは普段の足用をセレクト。息子はドラッグレース用に手を加えた原付で街へ出て事故る)は満足するだろうが、アジアマーケットの9割強を失うであろう。
 各バイクメーカーの50cc市販モデルは、ほぼ慈善事業と化し、ほぼ日本にしか需要はなく、といってもその需要量は薄く、環境適応のための研究開発費は負担増。安全性も求められ、削りに削る余地はもう限界。この状況で開発費を賄えられる程に世の中はもう単純ではなくなってしまった。採算はドス赤く黒ずみ、他車両モデルに損益を希釈しなければ成り立たず、つまりメーカーは50ccに無理をさせ、50cc以外のユーザーがその負担を被る。
「誰も嬉しくねえ……。造る方も買う方も……」
 欧州では50ccは競技用を除き、見切りを付けている。排気量を向上させ、無理にアクセルを開けなくとも実用加速と実用速度を手にし、環境適応性能と採算性、また理にかなった免許制度を導入し、経験値と年齢に応じた常識の範囲に、現実と論理を合わせ上手く地に足を着けた。

「戦後復興」という目標には「ガムシャラ」が機能したが、復興を成し遂げ数十年。私には次の目標見失っているように見える。現在は戦後復興で猛烈に稼いだ先代の貯蓄を食い繋ぎ、息も絶え絶えというところだろうか。これを変えられなければ行末はだらりと末路に向かう。
 直線に特化した縦一列連隊式日本の足腰は状況に適応出来ていない。柔に豊み、己が論理を外に向けた先に社会は展望する。現状は内向きの小さな村社会を大きな村社会が包摂し続くが、先細りのための先細る環境構築である。これでは忌避する衰退に向かい、塞ぎ込み、錐体外路を侵し、踊り倒るまで続けるようなもの。
 寝て起きて仕事。酒を飲み寝て起き、間に違法アップロードされた漫画サイトや淫欲の閲覧では作り手は食えず廃業し、文化は育たず経済も回らない。便利で手近な処に消費は流れ、併せてトリクルダウンは机上の空論だったことも重なる。
 外国人観光客を誘致するが、日本人は観光に行く時間もお金もない。このことを誰も問題視しないのだろうか。
「物価が安いから観光は行きたいけど、私には難易度日本で暮らすのは難しいです」 人口減少問題を海外の方に望んでいるようだが、彼らは来てくれるのだろうか?
「30年成長なき日本」 ゲームが変わったのだが、それ以前の方法を軸に挑み続け、昭和を懐かしうみ、冷戦が再びというのが現在ではないだろうか。
 変えるべきは我々の毎日の過ごし方である。仕事と余暇の両立だ。24時間詰め込んでいては消費する前に翌日を迎えてしまう。ギスギスとした雰囲気も詰まれ、余裕が欠乏し、遊びがないため変化に弱い。
 インターネット上の村社会と、現実は別である筈だが、年々接合している。これは現在の日本故なのか、世界的に繋がった時代故なのかは判らないが、私たちはデータだけでは生きていない。生物として生きている。
「ネットワークがある」のではなく「ネットワークもある」で、ある。選択肢のカードが増えたはずが、減ったように感じる昨今、動くことが「革命」に繋がるまで腰に漬物石をぶら下げ、画面を眺め、昨日を今日にと居残る必要はない。
 来る人工知能前とする社会にも備え、人が育っていなければITブーム以降と同じ産業構造になるだけであろう。頭上を飛び越え資本の移動が続き、一層と少子高齢化は進み、年々劣化していく各インフラの刷新に、人も金も不足し、そこにも外資が参画するという負のスパイラルに収まっていくのだろう。
 インターネット先の物をタップし、簡易に充足を得れることに経済が流れることを構造が補強している。刹那的に効率的に過ごしているが、その先の雇用枠は如何程にあるのだろうか。
 これでは詰まり行く手詰まりを続けるようなことだろう。人たり得る暮らしに向け、人が人たり得る暮らしが成りたつことが、仕事と余暇もある国で良かったという社会が此れからの日本に必要だ。日本も欧州も、もう戦後ではないのだ。

 その解決策の一つに私は自動二輪車を推したい。個人的な愛に耽溺し、無理くりに奨める訳ではない。そこには日本の悪しき過去と、自動二輪車が冷遇されてきた背景が重なり、それ故、改善と最適化する余地が多い。それを変えることは次の世代に繋げられる媒介にもなり得るはずだ。同時に裾野の広い自動車業界は雇用も消費も大きな数を作り出せる。下々に仕事があり、まともな賃金が拡がらなければ、消費も生まれない。つまり「分別」の育成と同時に「経済」を進めることが可能である。よって、強く推す。
 理想だけでは人は動かない。そこに繋がるように道筋と、道理が通る筋道を構築し、若者の雇用先と消費も確保し、その先にも繋がる仕組みを提案したい。大きな「あっち!」と、そこまでの路順を示せれば私の考えの上がりであり、そこから次の始まりに繋がることを確信ししている。

 日本ほど自動二輪車に対し二対相反するものはないのではないか。世界に名だたる4大バイクメーカーがあるが、バイクに纏わる過去のしくじりが未だに尾を引き、心象は良くない。自動二輪車に乗っかる「悪のイメージ」である(それに乗じたい者も居る)。
「冷遇されることは当然」という根は四方に張り巡り、「危険」ということも重なり、忌避やむなしということであるが、このまま日本での需要が薄ければメーカーは生産部門を一層と海外に移し替え、利益率の高い大排気量を少量日本に向け輸出。国内は細々とやっていくことになるだろう。その過程にはきっと外資が入り、大量のレイオフと、段階的な縮小ということが容易く予測出来る。決め台詞は「なんでこうなったんだ!」と、復元不能後に叫ばれる何時もの図式が私には色濃く見え、結局困るのは日本だったということに帰結するであろう。
 内に篭っていても限界を来す。外を向かなければ展望はない。という行先を二輪メーカーは先立って行ってきた。いや、国内で冷飯を食わされ続いたため、生き残りをかけそのように適応していったのだ。これは日本の未来の縮図そのもだ。
 マスプロダクツの生産活動が縮小されるということは、それだけ雇用の枠が小さくなることであり、生産部門と比較しIT関連の雇用枠は小さい。次なる世代の雇用と、消費を失っていいのだろうか。自動二輪車は好事家の物に収まり、外資に上積みかっさわれ、職も失い……。嗚呼、くそう。向こうで河島さんが嘆いているぜ。

 ということで、自動二輪車に合わせ「前輪」と「後輪」と二回に別け著述。
 何事も観察から生まれるとうことで、本稿ではまず自動二輪車に関わるステレオタイプを解剖し、ドライバー、ライダー、両視点を記載。記号的物の見方を開闢していきたい。なかんずく様々な場面で起こることだが、少数の派手目で残念なことで大多数が割を喰らうというのは、常に適切なのだろうか?

・50ccへの印象
 概ねドライバーの印象は「遅い」に集約するかと思う。その遅い原付を追い抜く際、手間取ると、イラッときて『バイク許さない貯金』に憎悪が溜め込まれ、負のサイクルの循環が始まる。
 斯く言う私も原付は苦手だ。信号待ちの中、傍からゆるり、ふわりと追い抜かれるも、信号が青になった後の屁のような加速にイラッとし、前を走るライダーの安全を考慮し、同時に対向車線の安全も汲み、車線中央のキャッツアイを踏み、嫌な振動が車を揺らし、追い抜くという一連の流れですが、次の信号待ち中、ゆるり、ふわりと追い抜かれ、再び追い抜くということを繰り返す毎に「んもうっ!」と、『バイク許さない貯金』のマグマ黙りがターボがかる。
 総じてそうしたライダーは大体男性。ヘルメット越しになんとも言い難い、ぬぼっとした雰囲気を醸し、此方に目を合わすでもなく割り込む姿は薄気味悪く、「バイクに乗らないドライバーからの心象は悪いだろうな」と、路面の白線を宿木にするライダーの背に思うわけです。
「端っこでも走っとけ。うすのろ!」ということで、普段は道路の端を走る原付でございますが、これが難物。排水効果のため道路は中央に向け緩やかなかまぼこ型に路面はラウドし「波状だわ。猿の赤ちゃん」 道路の端にその皺寄せは押し寄せ、文字通り波状に路面はうねり、木の根なんかも張り出していたり、「ポイ捨てされたペットボトル」や「野生化したヘルメット」「片っ方だけの靴」「自然に戻り始めた如何わしい雑誌」なんかもあったりで、車体はバンプするし、正に波状。
「喰らえ! のろま!」 そこに追い打ちを掛ける獰猛なドライバーによる凶悪な幅寄せと、道路の端はオン・ザ☆エッジで大変ハードコア。
『バイク許さない貯金』に貯まった易怒が。無謀な幅寄せとして今貯蓄を崩される! 迫り寄る1tを超える鉄の塊。剥き出しの100kg未満の50cc。コースアウトしたくとも出来ない。降りようがないこのデス・ダービー・アトラクション。路面はうねり、横から迫るダンプトラック。タイヤのシャフトは首付近の高さ。もう肝なんて冷凍マグロも絶命後の冷え冷えで、死の間際に浮かぶ走馬灯と詩は浮かんでは消え、聞けわだ道の凸凹よ。
☆あ、しまった。現実にはダンプトラックのタイヤシャフトは原付のライダー腰辺りですね。私が幼少の頃「お前に惚れた」である、採掘場の巨大ダンプトラックがストリートに来た。という設定に読み替え辻褄合わせを願います。

「では原付に限らず、バイクは何故信号待ち中に前に出たいのか?」というと、過去に原付で街を跨ぎ、物を運ぶ生業を経験してきた著者の私見はこうだ。
「自動車から出る熱々の排気ガスを回避したい」 自動車の大きさに応じ排出されるガスはそれはそれは熱く、真夏なんかは唯でさえ暑い中に排気ガスも合算されると、もうやってらんなくて、尚且つそれが地球に厳しめで、身体にも厳しめな匂いとビジュアルの黒煙なんかだったりすると、熱に匂いでツープラントン。「ビターン」とフルバンク。そうしたこともあり私は環境厳しめな古いディーゼルエンジンに大反対。出される黒煙をドライバーに吸わせて差し上げたい。また、バイクは走っていないと暑くて暑くて「もっと風を! もっと自由を!」ということがあり、一歩前へ。と、信号待ちのドライバーの皆様傍を抜いておりました。
 抜くのはいいけど、抜かれるのは許さない! というのは大変我儘。それ故、私は交通の邪魔にならなければ、傍から抜かれようが気に致しません。求めることとは、追い抜くならば交通の流れを率先するように加速して頂きたい。ライダーに街中で200km/hを出せとは求めていません。同時に渋滞中のドライバーの皆様には「すり抜け許さない! 絶対!絶対にだ!」をお控えください。原付はあれですが、自動二輪車の加速力は鋭いため直ぐに消えて行きます。
 尚、路上をごゆるりと徘徊たもとおられるご高齢原付ライダーを無意に邪険にするのは止めましょう。街に色どいを加える微笑ましい先駆者であり、「走って追いつけそう」と、心に思えば、心穏やか。

・カミナリ族とその後
 一部のドライバーは運転席助手席の窓ガラスに、雲行き怪しい遮光性高めな煙を導入しがちでありますが、日光やにんにく、ロザリオ、車検なんかが弱点じゃないかという気がしております。そんな方々は恥ずかしがり屋のようでいて、周囲への主張と威圧は強目であり、タイヤの数に限らず路上で他車を威嚇したがる方は居られます。
 自動二輪では「コール」と呼ばれる……『呼びだすことをCall』意味する英単語の後に日本語で「呼ばれる」と書くと困惑しますが、クラッチを切った状態でアクセルを小刻みに捻る「ウォンウォンウォン」とする「コール」にも「だから何?」と、困惑いたします。
 所謂族車に私は興味がありません。しかし、自分の価値観と異なるものを排除していては大変生きづらくなります。よしんば自分が排除される側にならないという保証もありません。新たな価値観なり現在の価値観を問うなり、はみ出してしまう者というのは居ます。それをなんでもかんでも排除していては大変窮屈な社会になってしまいます。
 若い頃の「いきり」みたいなのは大なり小なりあるものです。私もそういうのは結構あり、車の運転中や、読書の最中、就寝前なんかに不意に思い出すと「わー! 明日天気になあれ!」と、バケツをひっくり返したような雨の中、バケツを被り走り出したくなる夏の思い出に、波のように呑まれることがままあります。
 歳が若いからこそ、社会が許容してくれているということは多く、歳を重ねても公共性や社会性を欠き、自分らしさのようなもので居直るバーバリアンと出会うと、こちらが恥ずかしくなり、恥を知らないことは幸せなんだろうなと思いますが……。
 しかし改めて「暴走族」とは、これはどうなのかと考えてみると、過去に出来上がったイメージ、作法に沿うよう縷々と自ら収めるのは、はみ出ているようには思えません。
 そのお作法、ステレオタイプがドライバーの自動二輪車へのステレオタイプレッテルを育み、後方確認を怠ったドライバーに「んもう! 後ろ見てないでしょ!」を代弁する「ウォン!」と鳴らすと「ほらみろ、バイク乗る奴はこうだぜ」と片付けられる場面なんかもあって、いやいや、それは違いますよ。
 自動二輪車から自動車はよく見えますが、自動車から自動二輪車を見失うことはままり、バイクの運転経験のないドライバーに、これを常に想像させるのは現実的ではありません。
 静か過ぎるバイクはお上品のようではありますが、ライダー、ドライバー双方共に望まない事故を手繰り寄せることにも繋がり、排気音はライダーの存在を伝える一つの手段でもあります。事実こうしたことを体感することがあり、それは信号もない交差点の出来事。車を運転中ウィンカーを出し右に曲がろうとした瞬間、後方から音なく近づき、右折しかけた私を右後方から追い抜く荒技師に遭遇。相手は昼過ぎに目覚め、コンビニに行く前系のママチャリに跨る女性ストリートファイター。カウルは上下スウェット。サンダル履きバックステップ。大学生くらいだろうか。
「これを轢いても、ドライバーが悪いのか……」と、震えた。
 私は一般的な方よりは自動車排気音に耐性がある方ですが、そこには速さが前提にあり、何時迄も前走する車両から煩い音を聞かされることは肯定出来ません。何時迄も後ろから「ウォウォン」とが鳴られ続くのも嫌です。
 主張強め。しかし別段社会的意味はない。前後の車両に対して恨みはないが、しかし威嚇は明瞭。そりゃ我儘ですよ。そりゃ『バイク許さない貯金』の通帳デザインに「三ない運動」のでかいロゴを、センターど真ん中レイアウトされます。
 悪目立ちの結果、記号的に片付けられる弊害を紐解くと、その端を発するのものも記号で、はみ出てはいなかった。
 現在のバイク免許制度も、自動二輪車のステレオタイプな社会的地位も、一部のライダーによる過去の暴れの結果、締め付けが厳しくなり、適度に悪くて、適度に善良なものまでも総じて割を喰らうのは迷惑です。
『バイク許さない貯金』のマグマは冷め、分厚い強固な岩盤となり、次へ繋がっていく。

・ビッグスクーター。ブームその後の死のバイク駐輪場問題キルチェーン
 ビッグスクーター顧客層とは、朝の通勤混雑を駆け抜ける都市部会社勤めに特化していた。通勤中スーツを着用しても汚れない。オートマだ。トランク容量も十分だ。ということで、日本国内ではおっさんから絶大な支持を受けてきた。
 おっさんとは上っ面よりも実利を取る。重ねた歳と会社勤めによる蓄積された経験及び疲労は、無理な気張りを後ろに下げ、継続可能性に特化するためだ。彼らは日常使いの「快適さ」と「経済性」の二正面で毎日を踏破している。
 勤労によりペシャンコとなるが、帰宅後のプロスポーツ中継観戦。もしくはその結果を晩酌と共に飲むことで、天日干しした後の枕のように平たくなった気持ちの回復が始まる。エロサイトにアクセスすることで回復速度を更に早めることが可能となるが、家庭のオービスこと、嫁にバレると捕まるため、うまく掻い潜るという技術介入余地もある。また架空請求に「身に覚えが……」なくはないため、強く否定できないなど、つまり、家庭を支え連続性に耐え得るのがおっさんであり、実利と省エネに特化するスクーターが選ばれるのは、あらかじめ決められていた出会いであろう。だが、2000年頃からビッグスクーターは若者からの人気を博し、そこから死の連鎖が始まった。
 原付のミラーに「こぶし」「目潰し」「平手打ち」という攻撃的な三すくみの導入を厭わないじゃんけんミラーを好む若者と、サイバートランスミュージックを好む層にビッグスクーターの人気が突き刺さり、これが期待を裏切らず蛮族と化した。
「威圧こそ我が信条」という独尊に則し、恫喝の闘気に包まれたスクーターが徐々に増え始め、見向きもされてこなかったビッグスクーターの乱獲が各地で繰り広げられた。
 獲れたてのスクーターから快適性が剥ぎ取られ、威圧性に置き換える特異点が発生。走行中の風を防いでくれるスクリーンは取っ払われ、走行風の直撃を歓迎し、次に洗練されたフロントカウルを、オラついた造形に置き換え始まり、前方車両に向けられるプレッシャーの強化が施されていった。車高調整キットも人気で、ロー・ロングに化けた結果、バンク角は狭まり、交差点毎に車体を「ズキュ♪ ズキュ♪」と、擦る者も現れたが、実際には「ガッガガガガガ」という音色である。
 自動車にはVIPカーと呼ばれるジャンルがあるのだが、重要な人物をそれでお迎えに上がるかというと、そんなことはないのだが、フランスはエマニュエル・マクロン大統領閣下を大相撲観戦に招くべく、お迎えに参じた。という思考実験を頭の中で行ったところ、日仏通商会談にて「関税10%上乗せ」をフランスから強要され、揉めた。と結論づいた。
 つまり、ビックスクーターの一部は、その方向を目指していたのではないかというのが、私の見立てであります。
 オプションにカーステレオを導入するというものも現れたが、これが難物。車と違いバイクは誰が運転しているかが丸見えであり、大きな音で近づいてくるライダーに否が応でも耳目が集まり、フルフェイスを被れば、そう、エレクトロデュオ『ダフト・パンク』だ。
 ストリートには「煩いダフトパンクが来た!」ということで、眉間に皺を寄せたオーディエンスが集まり、ダフトさんかパンクさんかは判りかねるが、イルミネーションを奢られた凄まじい造形のスクーターに跨り、音楽が聞こえて来るとなると、バイク愛好家からも音楽愛好家からも、煩瑣型の目で見られることは避けられない。
 ある日「成る程オタクカルチャーはもう特別なことではないな」と思い致されたのは、遠くから轟く排気音に重なり、徐々に徐々に聞き覚えのある音楽が、次第次第に近づき、明瞭になってくる。爆音で残酷な天使がストリートを駆け抜け、クラッチはないが、ブレーキを握り締め「コール」を切るその姿に、「継承されるのはそっちかよ」と、落涙。
☆メモ:ポーカーでの「コール」は、ゲームを続けることだが、私は降りたい。

 繰り返したいが、自分の価値観と異なため、取り上げてはいない。何故こうして取り上げるかといえば、流行後に残ったのは今回も自動二輪車への締め付け強化だったたのだ。
 褒められたものではないが、自動車に比べ小さな自動二輪車は通行の往来の妨げにならなければ、バイクを停めていてもある程度はお咎め無くされてきた。一部のビッグスクターによる出鱈目な路上駐車が問題視され始まり、更に其れらが周囲を威圧するような車両となると、これまで許容であり無関心であった市井の人々から、悪い意味での関心を惹き、『バイク許さない貯金』のマグマ溜まりに再び火が灯った。
 結果、路上の無法松にお上は厳しい目を向け、違法駐車の取り締まり強化と至った。そして取り締まりは強化されたが、バイク用駐車場の整備は追いつかず、都市部でバイクに乗るメリットが一つ失われていった。流行が過ぎ去れば自分は関係ないとでもいうのか。
 バタフライエフェクトとは予期しない脈動を指すが、これは想像力の欠如の結果ではないのだろうか。サーファーは砂浜の環境を整え、自分たちの趣味と社会地位の向上を図ったが、これはなんだ? 

"NICEST PEOPLE ON A HONDA" バイク=悪 というイメージを脱却しようと、ホンダがアメリカに進出した際のコピー。それまでの価値観を変えるべくメーカーは挑んでいったのだった。
「あのお、REBELってバイクがあるじゃないで(むぐぅおぅおおおお)」

 次回予告。
「俺は噛ませ犬じゃねえぞ」
『にこは猿ぐつわを掻い潜る。免許制度と高速道路のアンイーブンマッチをぶちのめせ。繋げドック・クラッチ。育てろ次世代』 にご期待ください。

⭐︎参考資料
『スーパーカブの歴史 ロングセラーモデルの変遷 1952-2012』
編集:小林健三
ISBN:978-4-89522-600-4

『ホンダ スーパーカブ 世界戦略車の誕生と展開』
編集:三樹書房
ISBN:978-4-89522-717-9

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