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スカートを履けるようになった日

「スカートを履けるようになったら、本当に服装から自由になれる気がする」
 ここ数年、自分の大きなテーマのひとつだったこと。これから書いていくのは、女性に割り当てられたノンバイナリーである自分の、多少屈折した見た目意識についての話である。

 最後に髪が長かったのは、大体3年前だ。腰あたりまであったものを、3回目だか4回目だかのヘアドネーションでバッサリ切った。それから自分の髪は、時を経るごとにさらに短くなっていった。
 明確に覚えているのは、英検だかの受験写真と、入学式の前あたり。まず前者は、写真を見てみたら、頭に髪が乗っかっているみたいに見えた。元々丸顔なのも関係していたと思うが、ひどく不格好で不細工に見えて、嫌で嫌で仕方がなかった。記憶違いかもしれないが、気持ち悪いって泣いて、赤い目で再撮影した気がする。携帯でアップロードした後は、すぐさま削除した。
 後者のときは、確か高校の先輩と同級生と、それから後輩さんと一緒に渋谷に行ったときだっけ。入学式を前にさらに短くした髪は、一番長いところで目の高さだったと思う。大学入ったら化粧とか必要になるんですかね、正直やりたくないけど。困らない程度には身につけておいた方がいいんですかね。すこし先輩とふたりきりだったときに、そんな相談をしていた。そのとき先輩の、当時長くはないけど自分ほど短くもない髪が風に靡いていて。その、風が吹く感覚が、自分から見たその人の在り方によく似ていて。ああ、この人はずっと本当に素敵だな、と思って。スースーするくらい短い自分の髪は、なんだか居心地が悪く感じた。

 中学は制服で、ブレザーにスカートだった。ベタ塗りの紺色で、プリーツが正面に3個くらいしかないやつ。で、自分の入った次の年から制服が変わることになった。しかも私立みたいなチェックのスカートに、品のいい青紫で校章エンブレム付きのブレザー、ネクタイまで斜めストライプというおしゃれさ。当時、なんで自分たちの代からじゃないんだと相当怒号が飛んだ。
 そして、もうひとつ大きな変化。女子制服で、スラックスが選択可能になった。
 幼稚園からの幼馴染で、女子っぽいことが大嫌いもいいところな友人は、「絶対ズボン選んだのに。ふざけんな」とブチ切れていた。余談だがその友は現在、筋トレをしまくって男性キャラのコスプレを楽しんでいる。原作愛のために努力を惜しまない姿勢は、ずっと心から尊敬している。当時の自分はといえば、そうだよなこの友なら、くらいの感じだった。自分だったら……でも、スカートを選んでいたかもな。だってスラックスより、おしゃれだし。ああでも、チェック模様がピンクなのだけは嫌だな。そんなことを考えていた。
 でも中学に入ってから、私服でほんとにスカートを履かなくなった。かわいい、といわれる服装をあまりしなくなった。女性っぽく見られるのが嫌だったし、そもそも服装に執着するのがかっこ悪いとか思っていた。あの頃の自分よ、お前7年後胡散臭い中華マフィアみたいな格好で大学通ってるぞ。
 幸いというべきかなんというべきか、少食スタートから段々食べなくしていっていたのがこの頃だったから、胸も高校に入る直前まで、ブラが要らないレベルで目立たなかった。というかブラを付けることにめちゃくちゃな嫌悪感を抱いていた。大きい胸なんて絶対要らない、このまま無くていいとずっと思っていた。

 高校は私服だった。のみならず髪色ピアス化粧もオールオッケーだったため、まあクラスは色彩豊かだった。それもあってか、自分も場面に応じてスカートもズボンもと、割といろんな服を著ていたと思う。
 このとき、卒業式。「袴って女性的なイメージがあるから嫌だな」と思っていたけれど、でもスーツはこれからいくらだって着れるし、それなら特別感のある袴にしよう、と決めた。赤系の著物ってわくわくするから、それに合わせて下はグラデーションの緑。友人が作ってくれた水引飾りを髪につけた。寝不足気味の空腹で帯飾りに締め付けられて、痛みと気持ち悪さで吐きそうになっていた思い出が大きいけれど、でも、楽しかったと思う。そもそも、ジェンダーイメージを抜きにすれば、着物自体は好きだし。

 大学の入学式あたりには、もう自分が一番落ち着ける形が「ノンバイナリー」だって、分かっていたと思う。受験が終わって、ついでに高校時代の恋愛関係もその前に終わらせて、やっと自分のこと、それに近い言葉を探し始めた。「Xジェンダー」もあるけれど、男性か女性かどっちかじゃないんだって、その二元論に強く逆らいたくて、ノンバイナリーという言葉を選びとった。「女性」でない自分であることを示せることに、安心した。

 けど、ずっと苦しくもあった。

 自分は一切の身体治療を行なっていないパターンのノンバイナリーだ。これからも、多分しないんじゃないかなの気がしている。未来のことなんて分からないけれど。それに、自認も早い方ではなかった。スカートだって履けていたし。女子社会みたいなのはよくわからなかったけど、まあ人並みにシール交換やプロフ帖なんかもやっていたし。甘ったるそうな少女漫画は好きじゃなかったけど、『なんでも魔女商会』シリーズにはワクワクしていたし。「彼女」と言われるのには何か違和感を覚えていたけど、「幸せにしてあげる」とか「養ってあげる」なんて絶対に願い下げだと思っていたけれど、「男性」とのお付き合いで女性的な立ち位置をしてもいたし。うん、「女性」みたいに生きてきた時間の方が長かったとも、言えなくもない。
 だから、自分が「ノンバイナリー」という言葉を使っていいものか、ずっと迷っていた。自分の在り方は、選び取った、と言って相違ないものだ。生まれてからずっと違和感を持ち続けていた人とは違う。「ファッション〇〇」なんて言葉にびくっとした経験は数知れない。自分もそう言われる部類の人間なのではないか、最悪、「女性」みたいに生きられなくもない自分は、本当に苦しんでいる当事者の人々の言葉を奪い、逆に迫害する存在なんじゃないかって。

 でも最近、それに反駁する言葉がぽんと生まれてきた。

 じゃなきゃ、こんなに苦しくねーよ。

 ノンバイナリーであるとカミングアウトした状態で大学生活を過ごして、2年生。母親から、もういくらでも「成人式の振袖早く決めなさいよ」と言われた。うん、後でやるよと言って放置。そもそもあの頃が過食症の一番ひどいときで精神状態もそれなりにボロボロだったし、それどころでないのも本音の一つ。自分がノンバイナリーであるということも多分理解していないし、ジェンダーの話も嫌いな母親は「あんたがスーツ着たいってなら、もう好きにすれば」と大層大層ぶすくれた顔で一度零した。多分、じゃあスーツがいいと言おうものなら向こう1ヶ月は不機嫌確定の雰囲気だった。
 ところが、これがあるとき、すとんと落ちた。そうだ、振袖で、ノンバイナリーフラッグカラー作ってやろう。
 これを思いついてからの動きは早かった。いきなり、振袖を選ぶことに前向きになれたし、楽になった。振袖全体で叶えることは難しかったけれど、最終的に襟元で4色を揃えることが出来た。間違えて黄色と白の順番を逆で着付けてもらうことになってしまったのだが、まあこれもいい経験だろう。

 そしてそこからも更にしばらく経ち、この前の帰り道のことだ。最近の自分は二次元的なファッションをすることでジェンダーの縛りから、いやいっそ「現実」の服装の縛りを壊して「創作」の中の服装をすることに活路を見出し、楽しんでいた。チャイナシャツにサングラスでロングウルフの襟足を三つ編みするとか。黒の羽織に、髪を赤い組紐で巻いて結ぶとか。こういったものは、本当に信じられないくらいワクワクする。非日常みたいな服を日常で纏うなんて、日常を壊していくなんて、最高じゃないかと。
 ああ、話を戻そう。その日は雨で、自分は性別を問わず着れる学校制服について考えていた。ここ数年で、風潮は大きく変化したと思う。自分が中学校のときは女子制服スラックス黎明期で、履いている人は相当珍しかったが、最近ではその時よりずっと多く見かけるようになった。けれど、男子制服でスカートというのは、未だにほぼないと言ってもいいのではないか。女性がズボンを履くことと男性がスカートを履くことのハードルの高さ、見られ方は、この日本ではあまりに大きく異なる。そもそも、「スカートかズボンか」の二択である必要があるのだろうか? その中間はないのだろうか? と、考えているとき、ふと「性別問わずワイドパンツにするのはどうだろうか」という案が生まれた。スカートのようにも見えるズボン。それは一つの折衷案になれるのではないかと。この思い付きに少々上機嫌になり、頭の中で色んな考えや記憶をかき混ぜていた。そういえば、この前の発表でノンバイナリーについてをやったとき、先生から男女二元論に囚われない表象のひとつとして『宝石の国』が挙げられたっけ。自分はそれが確かにノンバイナリー的表象であることを認めつつも、「宝石たちには人間とは違う宝石たちの在り方がある、自分はそれを尊重したい」と話した。あれは、やっぱり間違ってはいなかった気がする。自分の評価軸で他者を計ることは、本来──たとえ人間同士だったとしても──すべきではないのではないか。でも、全てにそれをしていたら共通言語が失われてしまうから、ある程度の共有を前提にするしかなくて──女性に割り当てられて生まれて、女性的な服装をして、女性的な振る舞いをしていてもノンバイナリーでいていい、そう書いていた人の記事があったな、あれに随分救われた──Undertaleでメタトンのオペラドレスに憧れていた、男性のように見えるあのモブさん、あの存在が嬉しかったな──宝石の国、月、ワイドパンツ、女性的であっても──

 あ。

 そのとき、なんだか分からないけれど、自分の中で確実に、何かがすとんと落ちた。そして、脳内にひとつの像が浮かんだ。
 黒い、革のロングスカート。
 それが、今の自分に合うと思えた。
 あ、今なら自分、スカートを履ける、と思った。

 こういうタイミングって、ほんとにいきなりやってくる。振袖のときもそうだっけど、本当にいきなり、自分の中で全てが腑に落ちてしまうときというのが、存在するのだ。
 家に帰って、支度を手伝ってご飯を食べて、それからやっと時間ができて、部屋でひとりになった。以前思い切って、もう着ないだろう可愛らしい服やスカートの類をほとんど全て捨ててしまったことがあった。でも、一つだけ残しておいたものがあった。高校の頃、友人と一緒に買った、グレーに黄色チェックのワイドスカート。あのときの自分は今より10kg以上軽かったから、Sサイズのそれもウエストを安全ピンで詰めないと履けなかったっけ。そのスカートを、確かめるような速度でハンガーから外す。シワだらけだけど急いで合わせるために着た白いシャツを中に入れて、ボタンを留める。

 3年近く振りに、スカートを履いた。
 3年近く振りに、スカートを履けた。
 なんだか、不思議な気持ちだった。あんなに忌避していたスカートを、今自分は履いている。履けている。見下ろすにつれて広がる裾も、嫌な感じはしない。嫌じゃ、なかった。

 まだ、人前で──自分を「スカートが履けるなら女性なんだね」と断定する人の前で──履くのは怖い。それでも、確かに自分はスカートを履けた。スカートを履けるようになった。
 全てが解決したわけじゃないし、今でもぶり返しのように不安になることはある。それでも、大丈夫だと思えた。
 やっと自分は、自由になれた気がした。

 帰り道、スカートを履けるようになったという確信とともに、踊るように歩いた。そのときに見上げた月はほんとうに、ほんとうに綺麗で。今日、こうして月を見たことを、帰り道のいつもより広く感じた事を、自分はきっと忘れない。そう思いながら、家へと足を踏み出した。

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