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"燃え尽き方"は技術

帰省の際の話

もう少し時間があるが、毎年お盆がくると思い出すことがある。

もう今から数年前の話だが、故郷の井波町(現南砺市)に帰省した時の話。中学校で吹奏楽部に3年間所属していたが、久しぶりに同級生で集まろう、ということになった。せっかくだから、顧問の先生も呼んで。

顧問の先生は、今では70歳くらいだろうか…昔と変わらないバイタリティで、我々が卒業した後も、フラダンスや大正琴の分野にのめり込み、ご活躍のこと。おそらく趣味のレベルを超えているのではないかと思われる。先生らしいな、って思う。

不死鳥か!

さて、当時の音楽室で開催され、プログラムも、校歌斉唱!?から始まり、当時のコンクールのビデオ鑑賞があったり、先生へのトロフィー贈呈があったりと、工夫が凝らされていた。

そして、それは、先生をはじめ各部員の近況報告の際の出来事であった。ある部員の「あれほど、燃え尽きたことはもうない」といったような発言があった際に、先生からの指摘があった。「『燃え尽きる』って、何度も可能よ。私も、その後、フラダンスに燃え尽き、大正琴に燃え尽き…燃え尽き方を知ってる人は、何度も燃え尽きることができるのよ。だから、一回と言わず、何度も燃え尽きていいのよ」と。

なるほど!と合点がいった。確かに、今の御時世では考えられないが、当時は盆も正月もない、という表現が大袈裟ではないくらいに、コンクールに向けて没頭していた。最後のファイナルコンサートなんて、ラストの曲の演奏には、感極まって皆が泣きながら演奏していた。今でも自信を持って、燃え尽きた、やり尽くした、って思える。

では、そこで「燃え尽き体験」はお終いか、というと違う。個人的には、大学受験、社会人になってからのイベント開催等のプロジェクト、そして退職、退任と、人生の節目節目の機会に「燃え尽きた!」と実感することがあった。じゃあ、何をもって、燃え尽きたとするのか?どこまでやった感覚が燃え尽きた、ってことなのか?そして、どうしたら燃え尽きることができるのか?おそらく、そのものさしは、初めて燃え尽きた、当時の部活動にあったような気がする。

また燃え尽きるために、今を燃え尽きる。そういうことなんだろう。

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