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憂きことの…

先日、noteの記事を書き上げた。

途中、受験関連の話になったが、そのとき、ふとアタマに思い浮かべたフレーズがある。

憂きことのなおこの上につもれかし 限りある身の力ためさん

今調べてみると、江戸時代の儒学者である熊沢蕃山の言葉らしい。勝手に百人一首の世界を思い浮かべていたが、そんなにも古くないようだ。

どこで出会ったか忘れてしまったが、受験勉強の合間に付箋に転記して、学習机に貼り付けていたのを思い出す。模試の判定が悪かったとき、やるべきことのタスクのボリュームに愕然としたとき、色々と凹んでしまいそうになっては、このメモを見て自らを鼓舞したものだ。「憂きこと」ウエルカムだぜ!全部まるごと飲み込んでやるぜ!みたいな。

当時は20世紀。なんでもなく受け入れていたこの言葉も、もしかしたら、最近では反発までいかなくても、違和感を覚えるかもしれない。

ツラいことはツラいって言っていいんだ、受け入れなくてもいいんだ。

確かに、「限りある」身の力を試すために、ギリギリまでストレスを掛けていくと、中には取り返しのつかないことになるケースだってあるだろう。実際に、私自身、受験中は精神的に参ってしまうこともあったし。だから、誰もが「憂きこと」を粛々と受け入れるべきだとも思わない。受け入れなくても問題ない。でも、できることなら、チャレンジできるなら、チャレンジして欲しい。「限りある身の力ためさん」ことは。

そして、もう一回、この言葉。

憂きことのなおこの上につもれかし 限りある身の力ためさん

あれから30年。さすがにメモも貼っていないし、なんならその存在を忘れていたんだけど、「これって、あれからずーっと、社会人になってからも続くし、そして起業した今も、たぶんこれからもつきまとっているんだな」って気づくのである。

そのときそのときで、大小あったりするけど、「憂きこと」はなくならない。いつになっても、どこに行っても、存在する。だったら「憂きこと」は一旦受け入れた上で、それを栄養にする、燃料にする、という考え方、発想はないよりは、あった方が断然生きやすくなる。「憂きことは」なくすのではない。なくなるのではない。常に「with 憂きこと」のスタンスが大事かな、と思っている。

頑張れ!全国の受験生!

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