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発狂するほどの、戻りたくない「あの日」があるか、どうか

10月である。久しぶりの投稿となった。

金沢に来てから、もう3年。
最近は、ときどき出張もあったり、仕事の内容も多岐に渡ってきたりと、こと時間的な忙しさや、やるべきタスク量だけでいうと、おそらく過去一である。仕事を皿回しに例えるなら、そろそろ回す皿を打ち止めにすべきか、どうか、の判断に迫られている。

プライベートの時間もあるのか、ないのか。どこからが仕事で、どこからがプライベートなのか。ボーダーレスになりつつある。
毎日、毎時間が仕事で埋まっていると言えるかもしれないが、一方ではプライベートで埋まっているとも言えるかもしれない。いや、そりゃないな、言い過ぎた。

ここ最近は、読みたい漫画も、観たい映画も、そもそも十分な睡眠時間も、ゆったりとした食事の時間も、犠牲になっている。いや、犠牲っていい方は違うな。そこまで悲壮感はない。「後回しでいい」と思うようになっている、が正解か。

実は寝ている状態がデフォルト

ほんと、穴があったら入りたい、というか、隙間時間があれば埋めたい、というある意味、脅迫観念にも似たものに突き動かされているような気がする。誰からの脅迫だ?
埋めないとお金が入ってこない。まあ、それもあるだろう。でもそれ以上にあるのは、埋めないと埋まらないという時間そのものに対するものだと思う。

どうして、こうなっちゃったのか?
その原因は、瞬時に思いつく。それは、3年前の起業当時、まさにゼロからスタートしたあの日々に遡る。自分の決断ではあるものの、勝算があったわけではなく、とはいえ逃げるわけにもいかず、1日、1時間、1分と向き合わなくてはいけない。「あぁ、今日も何も進展もなく、終わってしまった…。これ、いつまで続くんだろう?残りの人生、一生こんな感じか…」。現実を直視すると、発狂しそうになるからできるだけ深刻に考えないように、考えないようにしていた。
お金の不安もあったが、それ以上にあったのはこの時間が埋まらないことの漠然としたツラさ、怖さであった。
今思い出しても、ゾッとする。

際限ないゆえにこわい

背負う荷物の質を落とすことなく、ギリギリまで詰め込む。こぼさない程度に、倒れない程度に。
「娯楽や生活の質を犠牲にしてまで?」。そうだ。マンガ?睡眠?それらに費やす時間が山ほどあったあの日。山ほどあったけど、山ほど幸せだったか?むしろ、その山ほどある時間自体が、苦痛だったじゃないか?

そう考えると、私の場合、今を生きるモチベーションの源は、未来にはない。そう、過去の、戻りたくないあの日々。紛れもなく、感じたモワッとした恐怖…これから先も忘れることはないだろう。これが常に相対的な充実さをはかる物差しとして絶対的に存在する。これほど心強いものはない。

そう考えると、結果論だが、あの数ヶ月もさえも、自身の人生においては必要であり、必然だったのではないかと受け入れるようになった、そんな久しぶりに投稿する時間を見つけた、10月の朝である。

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