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死のやわらかい話

最近短歌を始めて歌人のトークショーやワークショップに参加して、死をテーマに二次創作をしていることについて得た話まとめ。苦手ジャンルとされる死を自分がどう捉えていたのかの気付き。

先日のトークショーのテーマは死についてであった。とても直球な内容で濃厚な時間を過ごすことができたのだが、細かい内容は理想の死について、死というものへの考え方など。羅列すると暗い話題のように思える。

しかし、そうではなくて、終末があるからこそ、それがいつ訪れるかわからないからこそ、それについて想像を巡らせながら生きる事が必要だという意味合いを感じている。

人体の細胞分裂の限界は四十から六十回とされているため、私達の身体は百二十年ほどで寿命を迎える。もちろん病気や怪我、不慮の事故がなかった場合に限るのだが。

病院や葬儀などでは九十歳を超えると大往生ですね、七十歳だとまだお若いのに残念でしたね、というような声をかけられることが多い。若い世代からしたら、どちらも変わらないだろうと思うかも知れないが、日常的に死と関わる職業の方の認識としてはそうなのだ。

その一方で日本の死因は自殺が上位に来ている。人生を絶つ選択をする若年層が多く存在し、それすら選べず装置に頼りながら老衰という臓器の限界まで意識が曖昧なまま生を全うするシニア世代も多くいる。(これは筆者の体験と見解の羅列であり延命治療についての批判ではない)

SNSでは絶望を胸に抱く人もいれば、何者かになりたいと野心を燃やす人もいる、そんな中で禁句とされている死について触れずに、どちらの欲望も語ることはできないと私は思うのだ。なぜならば、相反するどちらも人生の終わりを意識しているからこその行動であると感じるからだ。

何年も前から発生している片付けブーム、終活、そういったものも、終りがある日常をいかに閉じていくか、衰えゆく心身に対して生活をコンパクトにすることで、残される身内に対して迷惑をかけないようにする、これらは仏教的発想で多くの日本人に受け入れられたのは至極当然だと感じた。
私自身、物の処分も溜め込みも緩慢な自殺であると感じているが。

没蹤跡(もっしょうせき)、これは禅の世界で使われる言葉で、大まかに言えばものや考えにとらわれずに生きるという意味である。つまり、執着を捨てて生きることで、解き放たれるということだ。私はこの考えが美しいと思っている。今に集中して生きること、来るかわからない不幸や幸福を恐れず期待せず、かならず来る死を覚悟して日々を過ごすこと、こういったことが真のメメント・モリなのだと思う。

以上が私の考える、死のやわらかい部分についての文章でした。まとまりのないものを最後までお読みいただきありがとうございました。


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