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場末のディサービス(終戦記念日に)

父と母は同郷で徳之島出身 年も一つ違いで 同級生だったように思う。
戦争中は大変だったと母から聞いたことがある。
母はあまり話したがらなかった。 それほど悲惨だったのかなと
思うことがあった。
戦時中、母は医者をしている叔父さんの手伝いをしていたらしい
戦艦大和が徳之島の沖 数海里離れた海域でアメリカ軍の攻撃を受けて
沈没した。
1945年4月7日 多数の米軍艦載機の攻撃を受けて撃沈される。
乗員3000人余り生存者はわずか276人

その時 徳之島の浜にはたくさんの人が打ち上げられ 地獄のようだったと
母から聞いた。
徳之島の犬田布岬に慰霊碑が建っている。

母が「徳之島は昔 アメリカだったのよ。本土に行くのに、パスポートが
いってね、大変だったの」
確かに奄美大島の復帰は1953年12月25日
沖縄復帰は1972年5月15日
同じ日本で アメリカだったんだ。。。

父は鹿児島の知覧から出撃する 特攻隊に志願したけど 終戦を迎えたと
話していた。父が出撃していたら 父と母の出会いはなかった。

昨年までは仕事に追われる毎日 一日一日が無事に終わることばかり思い
介護保険に関する書類作りに追われていた。
場末のディサービスの利用者さんは 戦争の話をよくされていた。
尼崎には軍需工場があり 爆弾が雨のように降ってきた。
「ここは大きな防空壕だった」
廃校になった小学校の塀にはB29の弾のあとが残っていた。
尼崎は町なかに墓地がある 「墓石の頭が三角になっているのは どうしてか知ってるか?あれは戦争で亡くなった兵隊さんのお墓のしるし」と
教えてもらった。

母が「友達の一人が 戦争中にいなくなった。まだ生きているのかも
もしかしたら アメリカで生きているかも」と 時々思い出して
心配していた。

終戦記念日に両親のこと、ディサービスの利用者さんのことを思う。

暑い日が続きます。
ご自愛くださいませ。


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