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カラオケ歌謡曲と謡曲

カラオケで歌う歌謡曲と謡曲、何の関係もないようであるが、これは健康法と楽しみを兼ねた僕の(たくさんある)趣味(のうちの2つ)である。カラオケは現代のもの、謡曲は室町時代以来の日本の伝統、能の一部である。まるでかけ離れたものに見えるが、この2つは僕の心の中では非常に近いものとして存在している。
カラオケで歌いたいのは、昭和20年代~30年代の歌謡曲。最近、YouTubeで東京大衆歌謡楽団の歌をよく聴く。神社の片隅から始まった若手(30代)のストリート・ミュージシャンであるが、年配のファンを集め、今やメジャーになった。僕がカラオケで歌うのも主に戦前戦中戦後間もなくの歌謡曲である。若手の歌手がこの頃の歌を謳い継ぐというのは、この時代の歌謡曲が次第にクラシックとしての地位を確立しつつあるからではないだろうか、勝手にそんな風に思っている。「誰か故郷を思わざる」「港が見える丘」「東京ラプソディー」「赤いランプの終列車」、etc etc。いつまで歌っても飽きることがない。
戦後の歌謡曲は、もちろん今の世の中ではマイナーな存在ではあるが、それなりの地位を占めている。しかし、謡曲はどうであろうか? 能は歌舞伎と並んで日本の伝統芸能である。歌舞伎よりも歴史が古く、かつ高尚である。しかし歌舞伎が現代でも多くのファンを得ているのに比べて、能の人気はどうであろうか? あまり芳しくないというのが、僕の偽らざる感想である。たしかに歌舞伎の通俗性に対して、能は同じ人間の欲望や葛藤を表現しながらも、それを昇華した高みにあるように見える。しかし多くの人に感動を伝えるためには、そこにやはりエンターテイメントの要素がなければならないのではないだろうか。現在の能楽にはそのエンターテイメント性が欠けているように見える。大衆に媚びよと言うのではない。謡曲を謳っていると、その音楽的リズムに酔いしれる。それは歌謡曲では真似の出来ない快感である。この快感が能の物語性と合致したとき、そこには時を超えたエクスタシーが出現すると思うのだが、勝手な素人の想い入れであろうか。
写真は、我が若かりし頃、能舞台での「勇姿」である(前列右)。

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