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BOOWYにまつわる噂のエトセトラ Vol.19-① ~ 「1224」と幻の41秒① ~

【『1224』が14年後に発売されるまで】

1987年12月24日 BOOWY解散
「ROCK'N ROLL REVIEW DR.FEELMAN'S PSYCOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR」の最終日、渋谷公会堂において行われた同公演のアンコールにて、氷室京介氏は「これから、一人ひとりが、一人ひとりの為に、今まで4人でしかできなかった音楽をやってきたように……、一人ひとり、これからやっていこうと思います」と、これからはBOOWYではなく、メンバーがそれぞれ一人で活動していくことを宣言した。

解散』の言葉こそ使われなかったが、これが事実上の解散宣言とされている。実際にこの言葉を発した氷室氏も「『解散』って言葉の響きが、なんかカッコ悪くて嫌だったんだよ。そんなに大意はないよ。言いたかったのはようするに、終わりました。やるべきことは全部やりましたってことだったしね」「BOOWYは12月24日で本当は終わったの」と語っている(※1)
そうして、翌1988年4月4日、5日に行われた「LAST GIGS」にて、BOOWYは名実ともに活動を終えた

さて、この解散宣言がなされた渋谷公会堂のライブだが、その模様を収めた映像作品は、長らく世に出ることはなかった。
このライブ映像作品が発売されたのは、2001年12月24日。解散から丸14年経ってからのこと。

発売年である2001年は、BOOWY結成20周年と言うことで、レコード会社などがBOOWYプロジェクト(21st Century 20th Anniversary BOOWY PROJECT TEAM/「1224」のDVDのブックレットのみ「21st Century 20th Anniversary BOOWY PROJECT UNIT」の表記となっているのは何か意味があるのだろうか)を立ち上げ、BOOWYの関連作品を色々発売した年でもある。このプロジェクトのメインとなったのは、映像作品「LAST GIGS」。BOOWYのラストライブの模様を収めた作品だ。

「LAST GIGS」はライブが行われた約1か月後の1988年5月3日に、音源のみは商品化されていた。しかし映像は「1224」と同じく、売されてはいなかった。(海賊版は高額で取引され、広く出回っていたそうだが。)
2001年のリリースラッシュは、その「『LAST GIGS』を何とか世に出したいという気持ちから全ては始まった」と、東芝EMIストラティジックマーケティング本部副部長の映像部副部長(当時)の田村隆夫氏は語る。(※2)
また、BOOWYのディレクターで、このBOOWYプロジェクトの東芝EMI側の主任でもある子安次郎氏も、プロジェクト立ち上げの理由とそれに伴うリリースについてこのように話している。

「『LAST GIGSのライブ映像はいつ発売されるのか』という問い合わせが、解散から13年経った今でも途切れることなく寄せられたことが今回のプロジェクト立ち上げの理由の一つです」
2021という数字が今回のプロジェクトのキーワード。バンドの結成から今年で20年目、20世紀の音楽シーンを代表するバンドのファイナルライブを21世紀の最初の年にリリースすることにちなんでのキーワードです」(※3)

このBOOWYプロジェクト下で、2001年10月27日に映像作品「LAST GIGS」がDVD及びVHSで発売された。
この「LAST GIGS」に封入されていた赤い1枚のフライヤーによって、『1224』の商品化が初めて告知されたという。

2001.12.24 DVD&VC release
1224
DVD:TOBF-5104/VC:TOVF-1381 ¥5,800(tax in)
(一部収録素材の欠落を含めてノーカット編集、100分収録予定)

1987年9月にスタートしたDr.Feelman’s Psychopathic Hearts Club Band Tour。その最終公演となる12月24日渋谷公会堂でBOOWYは解散宣言をした。
このライブは5台16ミリフィルム・カメラで撮影され、翌1988年4月の東京ドームでの解散ライヴ「LAST GIGS」公演の終了を待って発表を検討する予定だった。が、同時に検討されていた「LAST GIGS」の映像化の案とともに企画自体が中止となった為撮影チームも解散となってしまう。その後この16ミリフィルムは「1224」とナンバリングされたまま、撮影会社の倉庫眠り続け、その所在は忘れ去られていた

それから10年以上もの歳月が流れた2001年5月撮影会社の移転に伴う倉庫の整理でそれらのフィルムは発見された。経年劣化で収録内容を損なうことをおそれフィルムを現像してみると、そこには解散を意識してか異様な緊張感に包まれた会場の様子も、噂を聞きつけ当日渋谷公会堂に集まった数千の群衆も、ライヴの最後の場面での“解散宣言”も、全てが記録されていた。

2001年12月24日 クリスマスイヴ。1987年12月24日のBOOWY解散宣言の夜を完全に収めきった記録フィルムを贈ります。

「LAST GIGS」封入の「1224」発売告知フライヤー

「LAST GIGS」発売から約1か月後の11月28日には、「“GIGS” CASE OF BOOWY」の音源が初CD化されるとともに、これまでビデオ・LDとしてしか発売されていなかった「“GIGS” CASE OF BOOWY」の映像がDVD化されている。
また、「BOOWY VIDEO」「SINGLES OF BOOWY」がDVD化されたほか、BOOWYの元メンバーである松井常松氏のソロベストアルバム「DECADE」と、高橋まこと氏のソロアルバム「楽しき人生」のデジタルリミックス盤が同じく11月28日に同時発売された。
「1224」の映像がDVD及びVHSで発売されたのは、さらにその約1か月後であった。
このDVDの宣伝文句は次の通り。

BOOWY解散、封印解除
1987年12月24日。東京。渋谷公会堂。BOOWY、衝撃の解散宣言。
この映像だけが、あの夜の決意を知っている。

「1224」の発売に先駆け、11月25日から12月16日まで、映画「1224 Film」が全国で期間限定上映されてもいる。

では何故、解散から14年も経った2001年というタイミングで「1224」が発売されたのか。
それについては、映画「1224 Film」のプロデューサーが映画のパンフレットにて説明している。

通常であれば、"DR. FEELMAN'S PSYCHOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR"のライヴCDやライヴ・ヴィデオが出されていてもおかしくはなかったでしょう。ただ、その後に『LAST GIGS』が控えていましたし、僕のなかでライヴ映像のラスト作品としては、ザ・バンドの『ラスト・ワルツ』みたいなものが作れればいいなという思いがあったんです。あの作品には本人たちの語りも入ってるんですが、BOOWYの場合も、渋谷公会堂の映像と、何かしらの語りと、そして東京ドームの映像と、それらを1本の作品にした形をプランニングしていたわけです。ところが、東京ドームの映像を作品化するには数か月かかるんですね。でも、東京ドームが終わって、すぐにソロ活動をするメンバーもいるため、その後にBOOWY名義の作品が出てしまっては、BOOWYというものに対する4人の決意が、時間軸がズレたまま世に出てしまうということになる。そういうわけで、このフィルムが世に出るチャンスがなく、結果的に14年の長きに渡り倉庫の片隅にずっと眠ってしまったというわけなんです。
ただ、この渋谷公会堂の映像がこういう形で残っていたということは驚きでした。前途のように、東京ドームとのセットで考えていたので、当時も渋谷公会堂のステージの最初から最後まで、全部を収めてくれという指示は出してなかったんです。当然、曲もダブるだろうから、ある重要なポイントだけを確実に押さえてくれればいいと。ところが、当時、映像のディレクションをしていた永石が、結果的に全部回していた。しかも、5台の16ミリフィルムで撮っているんですが、4台がフィルム・チェンジで、たった1台のカメラしか回ってないところでも、奇跡的にこぼれ落ちてる映像がないんですよ。このフィルムを現像したのは、今年の夏前なんですが、あの当時の映像が目の前に現れてきたときは、良かったなと思いましたね。僕のために良かったという思いじゃなく、とにかく誰かのために良かった。そう思ったんです。(※4)

映画「1224 Film」のパンフレットの裏表紙には、このように書かれている。

Directed by KATSU NAGAISHI (1987)
Edited by AKIRA MAEJIMA (2001)
Produced by SENJI KASUYA
Co-Produced by IRc2 CORPORATION
Presented by GYM the MANAGE and YUI MUSIC PUBLISHERS
(P) 2001 YUI MUSIC PUBLISHERS

これによると、この映画のプロデューサーは糟谷銑司氏。ユイ音楽工房にてプロデューサーとしてBOOWYを担当していた人物だ。上記に共同制作者(?)としてクレジットされている「IRc2 CORPORATION」は、1224後にユイ音楽工房から独立した糟谷氏が設立した事務所である。糟谷氏と同様にユイ音楽工房から独立した布袋氏と松井氏も同事務所に所属した。
残りのメンバー2人、氷室氏と高橋氏は解散後もユイ音楽工房に残った

1224の後、それぞれの道へ最も早く動き出したのは高橋氏である。
解散間際にBOOWYのマネージャーの土屋氏から、ロックバンドDe-LAXへの加入を打診されていた高橋氏は、年明け早々De-LAXへの加入を決意。LASY GIGS前の1988年2月には早くもDe-LAXとして新宿ロフトで初ライブを行ったという。(※5)

布袋氏と松井氏は1988年1月から始まった山下久美子氏のツアー「ACTRESS OUT OF THE BLUE」に参加。2月12日に渋谷公会堂でそのツアーを終えた後は、3月1日から開始した山下氏のアルバム「Baby alone」レコーディングに両氏とも参加している。(※6)
このように1224後早々に山下氏のツアーに帯同し、レコーディングも一緒に行った布袋氏の行動が、解散直後に流れたという「解散後、布袋寅泰は妻の山下久美子とバンドを組むらしい」というが生まれた要因の一つなのだろう。(御本人はその噂を否定し、そんな噂をする世間に怒りを露わにしていたが。)勿論、布袋氏が解散前に起こした山下氏のツアーバンド事件などBOOWYを蔑ろにする行動があってこそのことだと思うが。

事務所から独立したお二人のソロデビューはもう少し経ってから。布袋氏はLAST GIGSから丁度半年後の1988年10月5日に、初ソロアルバム「GUITARHYTHM」を発売。吉川晃司とロックユニット「COMPLEX」を結成したことを12月10日に発表した。
松井氏のソロデビューは布袋氏から遅れること1年、1989年10月25日に発売された「よろこびのうた」であった。

氷室氏は、インタビュー等は受けていたものの、4月に行われたLAST GIGSまでは、ライブやレコーディング等を行ってはいなかった模様である。但し、LAST GIGSを終えて中一日おいた4月7日(注:4月6日説もある、というか4月6日と書いてある記事の方が多いが、4月7日としていた記事では、便名や出発・到着日時を含めたロンドン滞在中の詳細スケジュールが記載されていたことから、ひとまずは4月7日説を採る。もし違っていたなら後日訂正させていただく)、コンセプトフィルムの撮影のためにロンドンへ発ち、4月下旬に一時帰国した後、4月25日から5月1日の日程で行われたソロ・ファースト・シングルのレコーディングのためL.A.へ発った。(※7)(※14)
氷室氏のソロデビューは1988年7月21日に発売されたシングル「ANGEL」である。

布袋氏と松井氏は、1224が終わってすぐに山下氏の仕事に参加していたとはいえ、あくまでもサポートという立場であるし、元々解散宣言よりもずっと前、BOOWY時代から山下氏の仕事に携わっていた。そういう意味では、解散前からバンド外活動――個人としての活動に熱心だったとも言えるが、それ故に、BOOWYで出来なかったこと――「今までできなかった音楽を、解散して一人ひとり、これからやっていこう」と考え、進んだ道だとは言い難い。

さらに両氏は、1224後にユイ音楽工房から糟谷氏とともに独立している。事務所を移籍すると、契約上暫くは活動できないということもあってか、この時期はまだそれぞれのソロ・プロジェクト全容見えていなかった
また、事務所から独立するわけだから、当然、元の事務所は、布袋氏や松井氏に対して「BOOWYとしての仕事」については十分サポートもフォローもするだろうが、BOOWYでなくなる以降のソロ活動については新たに所属する事務所がやるべきことだから、関与しなかろう。

それが当然であると感じるのだが……布袋氏はその頃の自身の境遇について、「BOOWYを支えてくれていたレコ-ド会社のスタッフクリエーターのほとんどがヒムロック雪崩を打ってついていったのでは……と疑心暗鬼になるようになった」(※8)「レコード会社とかいろんなスタッフが、当たり前のようにヒムロックに向かって行っちゃったからね。俺は、取り残されたような感じになっちゃってさ」(※9)などと不満を漏らしていた。

だが、「スタッフが雪崩を打って氷室氏についた」というのが布袋氏の単なる被害妄想に過ぎないということは、ホッピー神山氏が当時布袋氏の仕事に関与していたからという理由で、氷室氏サイドから解散直後にオファーされたソロプロジェクト参加を断ったというエピソードや「ORCHESTRATION BOOWY」のスタッフがほぼほぼ布袋氏に近しいクリエイター達であることからもわかる。布袋氏の主観はどうあれ、クリエイターについてはむしろ布袋氏側についていった人が多いのではないか。

また、布袋氏は、解散が悲しくて自分は暫く何もする気が起きなかった、ギターを弾く気にもなれず、デザイナーになろうかと考えたこともあった、などと、解散によって自分が非常に傷つき、大変辛く哀しい思いをして何も手に付かない状態にあったと強調する一方で、氷室氏の方はBOOWY後半にはソロの準備が終わっていたと話し、「解散で取り残されたような感じ」となった布袋寅泰を演出しようとしたりもしていた。

BOOWYの後半なんかはヒムロックはソロの準備とかほとんど終わってたし。ていうか、レコ-デングはしてなかったけどプロジェクトは進みつつあったし。『おいおいおい、そっちはもう進んでんの?』って感じ(笑)。でもまあじっくりやるしかないなあっていう感じかな。(※10)

しかしながら、BOOWY解散後に布袋氏とCOMPLEXを結成した吉川氏が語るところによると、1987年11月に発売された同氏のアルバム「GLAMOROUS JUMP」制作時には、既に、BOOWY解散後に布袋氏と吉川氏が組む密約が交わされていたとのことである。事務所を独立すると契約の関係で暫くは活動できないからその後一緒にやろう、と。(※11)
吉川氏もLAST GIGSの約1か月後に武道館で行われた同氏の公演"BACK TO ZERO"後に、所属していた渡辺プロから独立し、活動休止期間に入った。この活動休止前の最後の公演に、布袋氏夫妻は揃って赴き、2階席南A列で鑑賞したことが伝わっている。また、吉川氏は同公演のパンフレットに載せるための原稿インタビュー(インタビューは武道館公演の約1ヶ月前に実施されたとのこと)において、「すごくグレートな奴とグレートなユニットを組んで再び帰ってくるから。だから楽しみに待っていてほしい」と、後のCOMPLEX結成の予告とも取れる発言をしている。(※12) 
レコーディングこそまだであったが、1988年の春先にはCOMPLEXの構想水面下ではかなり具体化していたことが窺い知れよう。

こういったことに鑑みると、布袋氏サイドもBOOWY後半には解散後のプロジェクトの準備を着々と進めていたことがわかる。でなければ、1988年の秋にソロアルバムリリースとCOMPLEX結成なぞ到底できまい。
その意味では、布袋氏が「ヒムロックは~」などと言えた義理ではない。また、そもそもBOOWY時代から山下氏や吉川氏を初めとした他のミュージシャンのアルバムやライブに参加したり、他のバンドを掛け持ちしたりと「BOOWYのバンドメンバーとしてではない活動」を最も積極的にやっていた人物こそが布袋氏であるのに、どの口が言うかな、と呆れてしまうが、それが布袋氏の布袋氏たる由縁というか。

こういった布袋氏の発言が「氷室氏がソロ活動を望んで解散させたという」を発生させた原因の一つとなったのだろう。
同時に布袋氏は「解散するとヴォーカリストだけが脚光を浴びるけど、楽器隊は~」と、ギタリストたる自身がどれだけ解散によって不遇を託つかを声高に語ることが多いのだが、布袋氏がBOOWY後期にバンドに縛られない活動を熱望し、そのために何をしてきたかを知ってしまうと、「ほーんと、そういうとこなんだよなぁ」と苦笑い。ヴォーカリストに対するコンプレックスが高じるあまり、ヴォーカリストがギタリストたる自分よりどれだけ恵まれているか、自分はどれだけ虐げられているかを(時にはを交えても)大声で語ることで、「ヴォーカリストに負けていない自分の凄さ」を強く世間にアピールして実際以上に大きく見せることが布袋氏流の自己演出方法なのだが、それが逆に布袋寅泰という人間の卑小さを際立たせてしまっているのが何とも残念。

先に引用した「LAST GIGS」と「1224」の映像が解散後すぐに商品化されなかった理由でも、「東京ドームが終わって、すぐにソロ活動をするメンバーもいるため」と暗にユイ音楽工房に残った氷室氏と高橋氏が原因で出せなかったと糟谷氏が語っているのは、流石布袋氏の事務所社長に収まった人物の発言と言うべきか(笑)。
ちなみに、2017年の「1224-THE ORIGINAL-」のインタビューの際には、はっきりと「氷室がすぐに動き出すというプランがあった」と氷室氏を名指しした上で、「僕はユイ音楽工房を離れて、布袋と新事務所を立ち上げた。なので『LAST GIGS』の発売可否の決定には参加しなかった」「僕と布袋は東京ドームまではまだプランを描いていなかった」と話している。(※13)
「氷室は~だけど僕と布袋は~」……いやあ見事なまでに典型的な「布袋寅泰構文」(苦笑)。

【『幻の41秒』についての噂】

さて、こうして2001年に漸く世に出た「1224」だが、この作品は当初「41秒間の欠損」があった。DVDの裏表紙には「1987年当時16mmフィルムで撮影された古い映像素材編集した為」との説明があるが、「この欠損は意図的に行われたという説」がある。らしい。(Wikipedia情報)
今回、「Memories of 1224」が発売されるにあたり、超久々にWikipediaのこの項目を閲覧したら書いてあった。……昔から書いてあったっけ?全く記憶にない。

例えばお蔵入りの作品がある場合、お蔵入りの理由として、演奏を間違ったから、歌詞を間違ったから、不倫略奪騒動で離婚した妻が映っているから……等々の真偽不明な噂が飛び交うことは決して珍しいことではない。だが、演奏ミスなどであれば音声を差し替えれば何とかなる話だし、そこに見せたくないものまたは見えては困るものが映っていたとしても、空白時間の41秒はちと長過ぎではないか。
ブートレグで欠損していない映像を観たと仰る方もいたが、仮にそれが本当だとしても、ライブからそう間を置かずに流出した映像と、14年もの時間が経過して経年劣化したフィルムに収まっていた映像を単純に比較することなどできない。

確かに「1224」は2017年欠損のないオリジナルフィルムが倉庫から見つかったとしてリリースされている。そのため、「最初の2001年の時点でどうしてもっときちんと倉庫を探さなかったのか」との謗りは免れない。そこから発展して、「そんなに倉庫が広いはずがない。本当は最初から見つかっていたのではないか」という疑念が生じたのかもしれないが……かといって、意図的にあの箇所を欠損させるだけの理由が私には思いつかない。どうしても12月24日にリリースしたいということで、倉庫を隅から隅まで探す時間を惜しんだため、経年劣化したフィルムしか見つかっていなかったということであれば理解できるが。
完全盤で復元された部分を観ても特におかしなところはないように私の目には見える。

ということで、他に何か「意図的に欠損が行われた」と思われるような「理由」があるだろうか……とつらつらと考えていた時、「最初に不完全なものを出して、その後完全盤を出す『完全盤商法』で儲けようとしているのではないか」と疑っていたBOOWYファンをお見かけしたことを思い出した。
ライブシネマ「BOOWY 1224 FILM THE MOVIE 2013」が公開された2013年のことである。

個人的には、「後に完全盤商法をやるためにわざと欠損させた説」というのはあまり現実味がないというか……。仮にわざと欠損させたことが本当だとしてもそんな理由ではないと思っている。が、当時の状況を考えると、どうしてファンがそんな風にするようになったのかは、何となく分かる気がする、というか、そんな噂が生まれても仕方がないと思わないでもない。
なので、次回では「どうしてそんな噂が生まれたか」に焦点を当てて考えていきたいと思う。

※「BOOWYにまつわる噂のエトセトラ Vol.19-② ~ 「1224」と幻の41秒② ~」に続く

【出典・参考資料】

※1 PATiPATi 1988年4月号 P21
※2 オリコン 2001年12月31日号 P5
※3 宝島 2001年11月14日号 P52
※4 映画「1224 Film」パンフレット
※5 スネア P160-161
※6 ROCKIN'ON JAPAN 1988年4月号P57
※7 B-PASS 1988年7月号 P25-26
※8 秘密/布袋寅泰著 P178-179
※9 THE BIBLE 別有天地非世俗布袋寅泰著 インタビュアー神康幸 P75
※10 BRIDGE 1996年4月号 P50
※11 別冊カドカワ 1993年3月号 P36
※12 B-PASS 1991年1月号 P45 
※13 ぴあMUSIC COMPLEX EXTRA 2018年1月30日発行 P10
※14 ROCK'N ROLL NEWSMAKER 1989年3月号 P10

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