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(仮)伊藤兼男の従軍日誌 その1

はじめに

 これは「侵略日本軍南京大虐殺犠牲者記念館」の所蔵資料で、日本軍航空隊員「伊藤兼男の写真集」として公表された資料である。当館は南京事件の証拠だと主張しているが、つまびらかではない。
 そこで、現在までに「伊藤兼男の写真集」として公開された十数枚の写真(真偽不明の写真込)や、公開情報から得られた彼の軍歴を木更津航空隊の軍事記録との比較を行い、且つ南京大虐殺の証拠能力について検証してみたい。
 なお、製作者が「伊藤兼男」とする重要な根拠や顔写真などは開示されていないため「(仮)伊藤兼男」に、アルバム内にある「コレデ従軍日誌ノ最後ノ南京ヲ去ルノ日」との記述から「写真集」を「従軍日誌」と改め、「(仮)伊藤兼男の従軍日誌」と呼称することとする。

1.内容と入手経緯(中国報道)

 2003年9月18日付 中国「現代快報」の報道によると「伊藤兼男の写真集」には、日本軍侵攻を撮影した190枚以上の写真と南京大虐殺とその後の数ヶ月を撮影した144枚の写真が収録され、写真には詳細な解説が記されているという。
 入手経緯は「1995年に黒龍江省社会科学院副院長・武平が来日した際に岐阜県で”南京大虐殺の証拠を集めている”という人物と出会い多くの情報や物証を入手、1998年に再び来日した武平は所有者の名前を公開しない条件で写真集を受け取る。1999年武平が公開しようとした矢先、日本の右翼の騒ぎを懸念し、3年後(2003年)にようやく公開した」という。

2003年9月18日付 中国「現代快報」の記事
南京大虐殺の新証拠「伊藤兼男写真集」南京に到着
1938年1月7日、日本軍航空隊員の伊藤兼男は、侵略してきた日本軍とともに南京市に入り、光化門外の大学校飛行場の兵舎に配属された。 好奇心からか、それとも南京の街の悲惨な現状に同情してか、彼は手にしたカメラを掲げて、目に映るものを撮り始めた。 昨日、紆余曲折を経て、66年間保存されていたこの伊藤兼男氏の写真集がようやく海を渡り、黒龍江省社会科学院副院長の武平氏から「侵略日本軍南京大虐殺犠牲者記念館」に手渡されました。 この写真集は、日本軍が南京で行った凶悪な犯罪の、疑う余地のない新しい鉄の証拠であり、その血塗られた歴史を再び世界の前に明らかにするものである。
<大虐殺の写真144枚が新たな証拠に>
 写真集を開いた学芸員の朱成山は、"素晴らしい、迫力がある、国宝になる、町の宝として記念になる "と絶賛した。写真集は縦20センチ、横19センチ、厚さ3センチほどで、作者は木更津海軍航空隊の航空兵であったことが記者の目には映った。 1937年7月13日から1938年3月30日の間、対中国戦に参加した際に見聞きしたことをそのまま記録した写真である。日本軍の北京、南京、蘇州、上海への侵攻を撮影した190枚以上の歴史的写真と、南京大虐殺とその後の数ヶ月を撮影した144枚の写真を収録しています。 各写真の下には、いつ、どこで、どのような写真を撮ったのか、伊藤兼男氏自身が書いた詳細なキャプションがあり、南京大虐殺の惨状を再現しています。
<処刑人も悲惨だと言っていた>
 この写真集をめくると、白黒写真の一枚一枚が、1937年冬の南京での血生臭い出来事を物語っているように思えるのです。 伊藤兼男自身の写真、軍隊と一緒にいる慰安婦の写真、中山陵の壊れた壁の前にいる日本兵、慈恵院、秦淮河、中山路、そして逃げていく人々の写真がある。最も衝撃的なページでは、伊藤兼男さんが我慢できなくなったのか、4枚の写真の右上に「悲劇」という文字を書き込んでいました。 この4枚の写真では、南京郊外の川辺に犠牲者の死体が積み上げられている。犠牲者の山は黒い服を着てほとんど靴を履いておらず、明るい色の靴下が非常に目立ち、死体は数えるのが難しいほど黒く重なり合っている。山の端には、軍服姿の日本兵が4、5人、銃を手に立っていて、息のある中国人に銃弾を撃ち込もうとしているのだ。伊藤兼男は、この写真に日本語で小さく2行の注釈をつけた。"南京城壁外、濠の岸に捨てられた屍 "と。 中国語に訳すと、「南京の城壁の外、堀のほとりに捨てられた死体」という意味になる。
<写真集は紆余曲折を経て南京に到着した>
 1995年、黒龍江省社会科学院副院長・武平が来日した。 日本の中央部に岐阜県という場所があり、そこでは歴史と向き合う勇気のある多くの日本人が組織的に南京大虐殺の証拠を集めている。ある時、武平は街で日本人企業家とばったり会った。会話の中で、その日本人は、日本軍の中国侵略に関する多くの情報や物証を家に持っているので、それを渡すことができると言ったのだ。 武平が日本に帰ってくると、日本から分厚い資料が郵送されてきていた。1998年、再び来日した武平は、その日本人の友人の家を訪ねた。 日本人は戸棚から一冊の写真集を取り出し、武平に言った。「これは私が長年集めてきたもので、当時の日本兵が撮った写真を集めたものです。 これを渡したいのですが、ただひとつお願いがあります。"私の名前は出さないでください "と。 その後、伊藤兼男の写真集は中国に持ち込まれたが、1999年、武平が公開しようとした矢先、日本の友人から電話があり、その頃の日本の右翼の騒ぎを懸念して公開しないようにと言われたそうだ。 そのため、写真集の発行はさらに3年遅れ、今日になってようやく南京に到着したのである。
                         現代快報記者 高路

現代快報「南京大屠杀再添新铁证 《伊藤兼男照片集》抵宁」より、中国語をDeepL翻訳したもの

2.従軍日誌の記録

 中国側の公開情報は極めて少なく、鮮明な画像もなく、写真に付属した記述がカットされたものもある。秘匿性を高めるために情報公開を最小限に留めている印象を受ける行為に思えるが、その開示された資料を元に現時点で解読可能な部分を読み取ろうと思う。
 なお、先述のとおり表題「(仮)伊藤兼男の従軍日誌」は便宜上の「仮称」で、ここに掲載した画像の順番も公開画像にページ番号がないため順不同とした。

(1)南京發歸還ノ日

①記録の詳細
 
この画像は、2014年9月14日にWikimedia Commonにて「伊藤兼男の写真集」表紙(伊藤カネオのアルバム)のタイトルが付けられ、投稿されたもの。
 画質が悪く読みにくい部分はあるが、「南京発帰還の日」の前半部分は1937年(昭和12年)7月13日に出発して長崎県佐世保での待機から始まり、1938年(昭和13年)3月30日に南京を出立つするまでの軍歴が記され、後半部分は従軍経験の思いが綴られている。

南京發歸還ノ日(1p全体)
南京發歸還ノ日(1p右側)

南京發歸還ノ日
昭和十二年七月十三日勇躍征途二就キテヨリ
七月三十一日マデ佐世保海兵團ニテ待機 同夜突如
警急呼集ヲ受ケテ 八月一日午前零時佐世保發
八月二日済州島着 十一月五日済州島發
十一月八日北京着 十三年一月三日北京發
一月七日南京着 三月三十日南京發
コレデ従軍日誌ノ最後ノ南京ヲ去ルノ日 約八十日ノ
南京大校飛行場宿舎生活ニ終ワリヲ告ゲル日
思ヒ思ヒノ所感ヲ胸ニ抱イテ最後ノ記念撮影

「(仮)伊藤兼男の従軍日誌」より
南京發歸還ノ日(1p左側)

無事デ生キテ還レルト保証出来ル時 従軍程面白イモノハ
アルマイ 男子トシテノ本懐トカ 軍人トシテノ面目トカノ意味ハ
別トシテ 只一個ノ人間トシテ「生」ニ執着ヲ持ツ以上 戦争ノ
面白味ハ矢張リ生還スル者ニノミ無上ノ快楽デアル
僅カ九箇月足ラズノ従軍デハアッタガ 今傷一ツ負ワズニ
「トランク」ヲ提ゲテ内地歸還ノ途ニ就ク吾等ノ心中如何
陣中ノ思出ガ次カラ次ヘト走馬灯ノヤウニ繰リ擴ゲラレル一方
内地ニハ何時ツクカ 第一歩ヲ内地ニ印シタ時ノ気持ハ 故郷ノ
父母ハ 妻子ハ・・・・・・ 等々ト心モ既ニ内地ヘ歸ッタヤウナ
凡スル想像ガ廻ラサレル。男デアッテヨカッタ。軍人ニナッテ良カッタ。
従軍出来テ良カッタ然モ恙ガナクテ良カッタ ト結局ハ凡テガ良カッタノ一語ニ盡キルノダ

「(仮)伊藤兼男の従軍日誌」より

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー②南京へ着任(大校場飛行場宿舎を使用)
 
前項の内容から、(仮)伊藤は1938年1月7日から3月30日まで南京に滞在し、大校場飛行場の宿舎を使用していた、という。大校場飛行場は南京城光華門から南に約1㎞離れた城外に位置し、約3ヶ月間生活したという宿舎もその付近であったと推察される。

大校場飛行場の位置

大校場飛行場の位置
「日中戦争期南京の諸相に関する時空間復元 ―― 未利用資料の活用による新研究」より引用

http://www.jfe-21st-cf.or.jp/furtherance/pdf_hokoku/2018/a02.pdf

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー③(仮)伊藤の見た南京
 
1937年12月(仮)伊藤は北京に滞在中で、同月の南京戦には参加しておらず、従って目撃者でもない。また、彼が撮影したとする南京の写真は、彼が着任した1938年1月7日以降のことであり、南京が治安が回復し、3月28日の中華民国維新政府が成立する頃(~30日)迄のものである。

(仮)伊藤 南京滞在 ― 前 ―
1937年(昭和12年)
12月17日 日本軍が南京へ入城
12月18日 日本陸海軍合同慰霊祭が故宮飛行場で挙行
12月21日 各兵団、城内から退出
12月22日 第16師団歩兵第30旅団が南京警備を担当
12月23日 南京自治委員会が設立
12月24日 南京難民区の兵民分離査問工作開始
12月28日 安全区の中国軍将校23名、下士官54名、兵1498名摘発
12月31日 南京城内の電気、水道が復旧
1938年(昭和13年)
01月01日 南京自治委員会の発会式挙行
01月03日 南京避難安全区の中国軍敗残将兵たち、民間人暴行を自白
01月04日 「軍紀・風紀ノ振作ニ関シテ切ニ要望ス」通達

(仮)伊藤 在南京 ― 期間 ―
01月07日 (仮)伊藤、南京へ着任

01月11日 御前会議で支那事変処理根本方針を決定
01月15日 大本営政府連絡会議で中国との和平交渉打切り決定
01月16日 南京警備を第11師団歩兵第10旅団に交代
01月26日 南京大校場がソ連製S.B爆撃機に奇襲される
01月26日 アリソン殴打事件が起こる
02月07日 午後1時30分、慰霊祭。松井司令官の訓示
02月14日 大本営、中支那派遣軍の戦闘序列を下命
02月16日 日本軍名で掠奪暴行をしていた中国人集団11人逮捕
03月28日 中華民国維新政府が南京に成立。
03月30日 (仮)伊藤、南京 ― 離任 ―


(2)南京 その1

①全体写真
 2021年11月11日、南京大虐殺犠牲者記念館 というアカウント名で「伊藤兼男の写真集」として投稿された写真。
 そのうち2枚を使用して、2ページ全体の画像に結合・復元した。「(仮)伊藤兼男の従軍日誌」の最初から数ページめくった付近のようで、見開き2ページ分が写真の貼付け・執筆可能な黒台紙になっている。

南京 その1(全体)

②右側ページ
 このページは「南京 中華民国の首都として人口ハ約六十万」で始まる文章があるが画質が悪く、以下判読不能。中央上面に集合写真が貼られ、その下に「大校場飛行場正門前にて 木更津航空隊本隊 ⬜⬜⬜⬜」と読める部分がある。

南京 その1(右側1p全体)

左端には「向って」「右から」という見出しがあり、氏名が記されていると思われる。可能な限り解読すると
「向ッテ 第一班 一⬜ ⬜⬜ ⬜⬜ 山本 ⬜⬜ ⬜⬜ 菊池 (以下、判読不能)平野  第二班 (以下、判読不能)小⬜ ⬜⬜⬜(以下、判読不能) ⬜⬜⬜(以下、判読不能) ⬜⬜ ⬜(以下、判読不能)」
「右カラ 第三班 永田 ⬜⬜ 神田 滝沢 平 ⬜⬜⬜ 日暮? 篠⬜ ⬜⬜(以下、判読不能)  第四班 ⬜⬜(以下、判読不能) 高⬜⬜ ⬜⬜⬜ 菊島 ⬜⬜ 金子 ⬜⬜」となる。

南京 その1(右側1ページの左端を反転(ネガ)したもの)

③左側ページ
 
このページの記述も画質が悪くて、ほぼ判読できない。
 右端上段には軍人、右端下段に中国人風の人物の写真があり、中央上段にはかろうじて「雪⬜ 中山陵」と読める写真、中央下段と左端の2枚の風景写真があるが、詳細は不明である。

南京 その1(左側1p全体)

(3)南京 その2

①全体写真
 
2021年11月11日、南京大虐殺犠牲者記念館 というアカウント名で「伊藤兼男の写真集」として投稿された写真。
 そのうち2枚を使用して、2ページ全体の画像に結合・復元した。「南京 その1」の後続するページのようで、見開き2ページ分のうち左側1ページのみが写真の貼付け・執筆可能な黒台紙になっている。

南京 その2(全体)

②左側ページ
 
このページの記述も画質が粗くて文字は判読できない。
添付写真については、左端上段「南京国民政府・総統府の建物」、中央下段「中山北路に於ける交通信号楼(敵のトーチカ)」で、他の4枚は特定できなかった。

南京 その2(左側1p全体)
<判読不明>
南京国民政府 総統府
<判読不明>
中山北路に於ける交通信号楼(敵のトーチカ)

(4)南京 その3『惨』

①全体写真
この1ページ分の画像は2022年5月7日、叶建勛 というアカウント名で侵华日军南京大屠杀遇难同胞纪念馆での「(仮)伊藤兼男の従軍日誌」の展示状況を投稿したもの。見開き2ページ分のうち左側1ページのみが写真の貼付け・執筆可能な黒台紙で、下の写真から従軍日誌の最終ページに近い部分であることがわかる。

南京 その3『惨』(全体)

投稿文書
(中文)透过窗口看中国“这是日军航空兵伊藤兼男的影集,贴有南京城墙外累累尸体的照片。影集上还写了一个‘惨’字……”小编探馆 此刻,我馆讲解员汪贝正在为观众讲解南京大屠杀历史。 侵华日军南京大屠杀遇难同胞纪念馆

(日訳)日本人の飛行士、伊藤兼男の写真集で、南京の城壁の外にある死体の写真が掲載されている。写真集には「悲劇」という文字も書かれている・・・・・。編集部 博物館を訪ねて 今、博物館の解説員である汪贝が南京大虐殺の歴史を説明しているところです。日本侵略南京大虐殺犠牲者記念館

叶建勛 2022-05-07より

https://wakwb.com/t/?containerid=100103type%3D1%26q%3D%E4%BE%B5%E5%8D%8E%E6%97%A5%E5%86%9B%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%B1%A0%E6%9D%80%E9%81%87%E9%9A%BE%E5%90%8C%E8%83%9E%E7%BA%AA%E5%BF%B5%E9%A6%86&page_type=searchall

②正面からの写真
この約1ページ分の画像は2021年11月11日、南京大虐殺犠牲者記念館 というアカウント名で「伊藤兼男の写真集」として投稿されたもの。黒台紙には「惨(読:さん/意:みじめ いたましい・むごい)」、「南京城の壁外の濠岸に壘々(るいるい)たる遺棄死体」と記されている。
*濠岸=城堀の岸


南京 その3『惨』(拡大)

③個々の詳細写真
この詳細画像はWikimedia Commonsで2013年6月23日に「伊藤兼男の写真集」”南京大虐殺の写真”と題して01~04の番号が付けられ投稿されたものである。
*ここでは投稿での掲載順ではなく、台紙に書かれた「其の一~其の四」の順に従った。

南京 その3『惨』(その1) 上段右

『惨』 南京城壁外濠岸二壘々タル遺棄死体 其ノ一

南京 その3『惨』(その1)
南京 その3『惨』(その2) 上段左
南京 その3『惨』(その3) 下段右
南京 その3『惨』(その4) 下段左


https://allthatsinteresting.com/wordpress/wp-content/uploads/2018/03/burned-bodies-of-soldiers.jpg

④検証
A.「南京」の文字比較  
同日誌内にある同一文字の筆跡の比較から、特徴が極めて似ていることがわかる

(左)「(4)南京 その3『惨』」 (右)「(1)南京發歸還ノ日」

B.写真の比較 
白丸(工作物?)と赤丸(丸太?流木?)が同じであることから「その1」「その2」と「その4」が同一場所であることがわかる。
「その3」は他との共通性は確認できないが、同一台紙上にあって記述も順序も一連のものとして取り扱っていることから、同一場所であると判断できる、と考える。

(左)その1・その2              (右)その4

(5)その他

江蘇省鎮江
これは2021年02月04日、南京大虐殺犠牲者記念館 というアカウント名で「伊藤兼男写真集」として投稿されたもの。
台紙に書かれた「江蘇省鎮江(現、鎮江市)」は南京市と西側で隣接し、両市の北面には長江が流れている。江蘇省鎮江では、日本軍の軍需品運搬に クリー(苦力)が使役されていた、と記されている。

(5)その他

江蘇省鎮江ニテ 皇軍ノ軍需品運搬ニ使役ノ クリー(苦力)

(5)その他 より

投稿文書
(中文)每日读图图为由已故的著名历史学家步平先生捐赠给纪念馆的《伊藤兼男照片集》中的一页,日军正迫使镇江百姓背负军需物品。拍摄者是原侵华日军木梗津海军航空队航空兵伊藤兼男。
(日訳)毎日新聞の写真は、著名な歴史家の故・歩平氏が記念館に寄贈した「伊藤兼男写真集」の1ページで、日本軍が鎮江の人々に軍需品を背負わせる様子が描かれています。 この写真を撮影したのは、中国に侵攻した日本海軍航空隊航空兵、伊藤兼男氏である。

侵华日军南京大屠杀遇难同胞纪念馆 2021-02-04より

(6)不明写真 その1

これらの写真は、Wikimedia Commonsで「伊藤兼男の写真集」”南京大虐殺の写真”と題して05~10の番号が付けられ、2013年6月23日に投稿・公開されているもの。
「(仮)伊藤兼男の従軍日誌」にある記述部分の内容や筆跡など検証できるが情報がないため、現時点では従軍日誌のものかも判断できない。

①不明写真(南京大虐殺の写真05)
城壁前と思われるが、詳細不明。

不明写真(南京大虐殺の写真05)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
②不明写真(南京大虐殺の写真06)
建物の詳細不明。

不明写真(南京大虐殺の写真06)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー③不明写真(南京大虐殺の写真07)
詳細不明。

不明写真(南京大虐殺の写真07)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー④不明写真(南京大虐殺の写真08)
詳細不明。

不明写真(南京大虐殺の写真08)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー⑤不明写真(南京大虐殺の写真09)
この破壊された機体は、胴体上部に主翼が取り付けられた高翼機。主翼から胴体下部を繋ぐ2本の支柱に、胴部の上下端部から伸びるV字状の支柱で結束している。また前輪の支柱は三脚状の固定脚。
これらの特徴から、1945年(終戦)まで使用されていた日本海軍の九〇式機上作業練習機と判断した。

(九〇式機上作業練習機の画像引用)WW2大戦機botより

不明写真(南京大虐殺の写真09)
九〇式機上作業練習機との比較

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

⑥不明写真(南京大虐殺の写真10)
*後述の「(7)不明写真 その2 ②(仮)南京の通済門付近」で説明

不明写真(南京大虐殺の写真10)

(7)不明写真 その2

これらも前項の「(6)不明写真 その1」と同じで「(仮)伊藤兼男の従軍日誌」と比較する情報がないため、現時点では従軍日誌のものかも検討できない。

①(仮)南京市中山東路 大行宮
この写真は2021年02月25日、果然慢慢 というアカウント名で「伊藤兼男の写真集」として投稿されたものであるが、写真に添えられた重要な記述部分がない。
投稿主によると、南京市中山東路にある大行宮だという。大行宮は、中華民国総統府などがある地区。

(7)不明写真 その2(1)

投稿文書
(中文)果然慢慢 2012-02-25 15:14:33
让日本哑口无言:日刊南京大屠杀曝光(8) - 南京城墙外濠沟岸边,被日军杀害的南京市民尸体累累,惨不忍睹(选自[日]《伊藤兼男照片集》)
日军侵占南京后,军用卡车经过市内中山东路大行宫口,被残杀的市民横尸街头
(日訳)果然慢慢 2012-02-25 15:14:33
日本をダメにする。日本の雑誌で暴露された南京大虐殺(8)-。 城壁外の濠口岸で日本軍に殺害された南京市民の遺体(「伊藤兼雄写真集」より
日本軍が南京に侵攻した後、市内の中山東路にある大興宮口を軍のトラックが通り過ぎ、路上には無残に殺された市民の死体が転がっていた

果然慢慢 2012-02-25 より

南京市中山東路 大行宮(位置)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー②(仮)南京の通済門付近
この写真は「不明写真 その10(2013年6月23日投稿)」と同じ写真で、2019年3月2日に南京大虐殺犠牲者記念館というアカウント名で「伊藤兼男の写真集」として投稿されたもの。
投稿主によると、南京の通済門付近であるという。

(7)不明写真 その2(2)

投稿文書
(中文)每日读图
南京通济门外附近被日军破坏的惨状。——采自《伊藤兼男(日)照片集》
(日訳)每日读图
南京の通済門付近での日本軍による悲惨な破壊。 --伊藤兼雄写真集」より

侵华日军南京大屠杀遇难同胞纪念馆 2019-03-02 より

南京の通済門付近

最新南京地圖(1937年)より



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