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広辞苑、買った・・・

図書館に通って、たぶん、この先それほど読む事はないだろう。とは思うのだが、どうしても手元に置きたい。なので今日購入してきた。はじめて『広辞苑』を手にしたのが中学の時だから、孫娘の中学の入学祝いで、などとレジのお姉さんにどうでも良いような言い訳を言いながら、『ラジオ英会話』のテキストと一緒に置いた。

久し振りに、半世紀くらい振りに開いて読んでたら、猫が不思議そうに見てる。『広辞苑』は中学の時に、『世界大百科事典』とともに一番読んでいた本だろう。百科事典は家になかったので、学校の図書室で開いていたが、『広辞苑』は家で開くたびに、日本語の拡がりを感じさせられた。

以前の記事でも書いたが、6年生の時に作文の書き方を教えられた。原稿用紙に3枚、与えられた課題で書いて、担任でもない教師が添削し、特に副詞や助詞の使い方などを注意された。

中学生の時にも作文に熱心な先生がいて、授業の担当でもないのに、声を掛けられて作文の書き方を教えられ、放課後に図書室で読んで添削をしてもらった。この国語の先生には一度も教えられた事も、担任にも成らなかった。担任の先生の話では、書道家としても名が知れていたそうだ。昔の試験は先生の手書きのガリ版刷りで、国語担当の先生はその問題用紙を毎回大事にもらって家に保管してると言っていた。担任の先生にも、あの先生に直接教えられるなんて幸運だと言われた。チョット猫背の背の低い、退職間近の男の先生だった。

その先生から「生」という字は70通りの読み方があると聞いた。日本語の表現の拡がりや、直接的ではない、ボンヤリとしてだが、心の機微を表現できるのが日本語の特徴だとも。子供の頃に左利きなのに書を祖父から学び、苦労した話をしたことから、和語の素晴らしさと平仮名の筆文字の美しさも、書道家の先生らしく書についても教えられた。

この頃、下校時に通っていた書店の店主に勧められて、中高生用の文芸雑誌を読むようになり、投稿者達の様に長い文章を書く様になった。それを投稿したら佳作になり、ビギナーズラックというか、二色鉛筆が送られてきて有頂天になってしまった。その後はいくら応募しても、高校になるまで全くダメだった。


余談ながら、先生は中国の手本ではなく、主に藤原行成の書を学んでると、幾つかの手本を見せられたことがあった。中国書道の古典籍よりも、行成の楷書と行書の混ざった書きぶりは美しかった。仮名文字も、こういう文字が書けたら一日中でも書き続けていられるだろうと感じた。

上野の博物館に展示されてるというので、生まれて初めての大冒険、たった一人で電車に乗って上野まで行った。常設展示の書は、お手本と比べあまりにも小さいのに驚いたが、ただ普通に手の届く位置の壁に吊されてることにも驚いた。泥棒の気持ちが分かったというか、見ててあまりにも美しい文字に吸い込まれ、欲しくなり、盗み出せないかなどと空想していた。

その先生の勧めもあり『広辞苑』を購入して読むようになった。読んだと言っても中央部分ばかりで、左右それぞれかなりの頁は開かなかった。日本語の面白さや不思議さを感じたが、とにかく分厚い本で、パッと開いた語句から次から次へと関連語句や近くの語句を読み進む。左右はほとんど開かなかったので読まなかった。今回購入したので読んでみるつもりだ。

机の上に置けば、まさに文字通り「座右の・・・」というように、本棚には重すぎて持ち出すのが面倒になるので、机の端に置くようだ。


今回『広辞苑』が欲しくなったのは、NHKBSの「舟を編む」の影響も大きい。このドラマの切っ掛けは、池田エライザのファンだった事なのだが。

小中の多感な時期に、作文の書き方から日本語の美しさと感情表現の豊富な和語を学び、同時期に人生で出会った最悪の英語教師への反発から、日本語への興味が大きくなった。そんな時に『広辞苑』を勧められ、ちょうど新村出先生や漢和辞典の諸橋轍次先生を紹介する伝記本が出て読んでいた。それを読んで如何に言葉や文字の収集と、その研究は難しく大切であるのかを知った。『広辞苑』と諸橋轍次著なる大きな漢和辞典も揃えた。両者とも大部だが、残念ながら漢和辞典は余り開くことはなかった。

『広辞苑』も『大漢和辞典』も、多くの研究者と出版業界の人達の、戦後日本の誇りと自信を取り戻す大偉業でもあった。先生達からも学んだ和語の素晴らしさ、感情表現豊かな日本の言葉、時代に応じて変化し外国文化も取り入れて新しい日本語を生み出してしまう、日本語の度量の大きさ、テレビドラマの「舟を編む」は、日本語の素晴らしさを初めて知った頃の感激を思い出させてくれた。

『広辞苑』は早くからデジタル化され、『大漢和辞典』も最近デジタル化されて発売したらしい。平凡社の『世界大百科事典』の改訂版も久しく出ていない。

世の中、何でも便利にとデジタル化が流行っているが、PCやスマホで簡単に調べられるようになっても、紙の本には適わないことがある。利便性や効率化、経済性などを優先して本来の大事な目的を忘れてしまったようだ。紙の辞書辞典類こそが、多くの日本人の眼に触れさせ、日本文化に誇りを感じさせることだ。

一語から想像が膨らみ、次の一語へ飛ぶことだ。あるいは似たような発音でも、多くの言葉が存在し、多くの意味があることが一瞬で見て取れる。いくら文明が進んでも、この本人さえ意図しない展開の面白さは、紙の辞書を開く醍醐味でもある。

紙の『広辞苑』消失後は、便利であろうと思いデジタル化したものを購入したが、ほとんど見もせず、たまに調べ物があってもその一語だけしか読まない。スマホの普及した現在は、ほぼスマホだけで完結できてしまう。でも、夕べから開き始めた『広辞苑』の紙の本は、大きく想像の世界を拡げてくれた。




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