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老神温泉

 老神温泉は沼田市利根町にあり、近くには景勝地「吹割渓谷:吹割の滝」があり、かつては関東地方を中心にして人気を博した温泉地だった。私が20歳前後の50年昔の話になるが、織都桐生はじめ近隣地方都市の人達が集まり、その頃から流行り始めたコンパニオンも呼ばれて来ていた。もちろん平日のことで、休日や紅葉の季節には観光客も集まり、湯治客も多かったと記憶している。

 今の老神温泉は、昔日の沼田市街地をも凌ぐ繁盛してた老神を知るものには、何とも寂しさを感じる。その頃は夕方から父やその友人を乗せて、老神の宿まで送ったものだ。夜も遅くまで宿やスナックの明かりが煌々として、こんなに狭いところなのに、との印象が強かった。もっとも、今の老神温泉も嫌いではない。山に囲まれ切り立った岩壁に温泉宿が建ち、泉質は穏やかでまろやかだ。疲れを癒やすには至極良い、落ち着いて静かな温泉地だ。


老神温泉は観光地としても有名だった

 国民新聞(現東京新聞)読者投票で昭和4年から5年にかけて募集し、昭和5年に「全国温泉十六佳選」として、温泉地の人気投票を発表した。発行されていたのが関東地方が主であったので、やはり北海道や九州地方の温泉地は少ない。ちなみに、1位が箱根温泉、2位が花巻温泉、3位が下部温泉、4位が日光湯元温泉、5位が瀬波温泉、6位が小奈温泉(現伊豆長岡)、7位が老神温泉、8位が小谷温泉、9位が鬼怒川温泉、10位が伊豆長岡温泉、となってる。20位までに入ってる群馬県の温泉地としては他に、14位に大室温泉(現上牧温泉病院)、16位に川原湯温泉、となってる。

大室温泉は現在「上牧温泉病院」となってる。みなかみ温泉水上館の緣を頼り利根温泉辰巳館が大正15年に開湯し、その対岸に東京の大室氏が高級旅館を建てた。当時としては珍しい贅を尽くした高級料亭風の旅館で、辺地ながら人気を博した。更に上越線が伸展中でもあり、次第に交通の便も整えられてきた。昭和6年、上牧駅まで上越線が延び人気の宿になったが、昭和15年に売却され経営権は移り、昭和56年に一般病院になる。

 群馬県内の温泉地としては、老神温泉・大室温泉・川原湯温泉が入ってるが、17年間も人気温泉地連続日本一位の草津温泉は入っていなかった。伊香保温泉や国民保養地第1号指定の四万温泉も20位以内に入っていない。共に江戸時代より療養泉として広く知れ亘っていたのに、新聞読者投票では下位になっていた。療養泉としての湯治目的とは少し違う様に思えるのだが。

16位の川原湯温泉は、草津温泉の上がり湯とか仕上げの湯ともいわれていた。強酸性の草津の湯で荒れた肌を、含硫黄ーカルシウム・ナトリウムー塩化物・硫酸塩泉(低調性中性高温泉)が優しく労る、と以前から言われていた。昔を知る人に聞くと、草津温泉が病人などが多く集まる湯治宿が多かったのに比べ、川原湯温泉はいわゆるお大尽クラスの療養が多かったようだ。吾妻川の断崖に湯治宿が並んでる、というイメージではなかったようだ。もちろんそれなりの経済力もあり、主な宿は自前の源泉井も持っていた。成分は1kgに2g以上、温度は70度、湧出量合計で1分間3~400リットルという、泉質も湯量も優れて相当に良かったようだ。

 距離的に近いと言う事もあったのだが、我々桐生人にとって老神温泉は療養と娯楽と、何よりも自然環境の素晴らしい最も身近な転地療養のできる温泉地でもあった。子供の頃の印象としては、現在の鬼怒川温泉の規模を縮小したような「こぢんまり」とまとまってる、穏やかさと人の優しさと深い渓谷や高い山という自然景観の美しさと、独特な温泉地としての賑わいもあった。

 家族連れという印象よりも、鉄工所の自営であったからかもしれないが、大人の人達が飲み食い散策して、温泉を楽しむという慰労目的の温泉地に感じてた。土産屋なども多く、置屋さんも有ったと記憶してる。何回か芸者さんも一緒だったような気がする。小さなストリップ劇場跡も残ってるようだ。

老神温泉の歴史

老神温泉の歴史については、以後順次調べてみたい。明治期以降の歴史については、老舗旅館の穴原湯東秀館の部屋にあったパンフレットが詳しい。

老神温泉 穴原温泉東秀館

老神温泉の由来としては、古くから赤城山の神様(ヘビ)と日光山の神様(ムカデ)が戦い、傷を負った赤城の神様がこの地にたどり着いたときに、川から湧く温泉に傷を浸し治し、追ってくる日光の神様を追い返したという話しだ。ここで追い返したから、吹割渓谷の近くに追貝という地名が残ってる。

 温泉発見伝説でよくあるような、超有名な高僧とか武将の発見や、怪我をした鳥や獣を見て温泉を見つけたという話とは違ってる。個人的には、大和朝廷の征服以前にこの土地を支配していた豪族が居て、豪族同士の領地争いがあり、負傷した者の療養のために使われていたのではないかと思う。

 昭和初期の鐵道省発行の『温泉案内』によれば、現在の老神温泉は湧出地から3ヵ所に別れていた。

老神温泉

老神温泉旧坪湯跡

 老神温泉は、昭和5年版では無色透明の硫黄泉、温度45度、旅館は新湯・上ノ湯元・下ノ湯元・老神館、となってる。昭和16年版では単純泉、温度45度、旅館は上ノ湯本館・下ノ湯本館・山神館・朝日館・上田屋・初音・末広、となってる。浴場は河原からの自然湧出3ヵ所で、河原の岩壷に簡単なバラックを建て混浴であった、とある。坪湯の原型が残っていたようだ。この対岸に穴原温泉がある。

穴原温泉

穴原温泉東秀館

 老神温泉の対岸に穴原温泉があった。東秀館下には移転前の東秀館浴場跡が見られる。ぎょうざの満州東明館下にも、かつての浴場跡が見られる。

 自家源泉を有しているのは、「東秀館」と「ぎょうざの満州東明館」。老神温泉としては全部で10本の源泉を持ち、それぞれ混合して配湯してる。

東秀館内湯跡と露天湯跡

 『温泉案内』昭和5年版では「穴原温泉は東秀館しかなく、泉質は塩類泉、温度は46度、旅館は東秀館、片品川の木橋をわたると東秀館前に出る。建物は断崖に建てられ、浴場は老神のように河原の中に設けられてる」とある。同書、昭和16年版では「泉質は無色透明な食塩泉、温度は46度、旅館は東秀館・太陽ホテル・青木館、木橋を渡ると東秀館前に出て建物は断崖に建てられ浴場は川原の中に在る」とある。

開場温泉

現在は進入禁止

 昭和5年版には記載はない。昭和16年版では、泉質は硫黄泉、温度は45度、宿は開場館、老神と並び、穴原の対岸にあり静かな保養地である、とある。現在は近くにも行けない。

桐生市と老神温泉は明治のシルクロード

 明治の輸出主力産業が絹織物であった。桐生市の人達にとって、老神温泉が親しく感じられてたのは、明治期の絹織物に有るのではないかと思う。桐生市は1200年前からアラギヌの産業が始まり、朝廷への税として献上されてきた歴史がある。

 戦国期には徳川家康の命により、徳川勢の幟旗数千をわずか数日で作り、大いに家康を喜ばせた。江戸時代に入ると幕府直轄領となり、西の西陣東の桐生紬として全国に知れ亘った。明治の輸出産業盛んな頃は、沼田では養蚕が盛んになり、繭玉を集積して大間々まで運んだという記録も有る

 沼田の養蚕農家の繭玉を集め、旧利根街道、沼田から東秀館前の穴原を南郷村に向かい、更に利根村から大間々へのシルクロードができた。今もこの街道跡は在るのか分からないが、沼田から大間々、そして桐生までは老神温泉を抜ける街道を通して、深い繋がりが在った。

 はるか昔の話しだが、桐生や足利や大間々人のDNAの中に、老神温泉の魅力がかつての繁栄の記憶と共に刻まれているのかもしれない。老神温泉は静かで落ち着ける、安心できる温泉地だ。


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