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『源氏物語』時代の評価の変化

『源氏物語』の貴族文化の時代、平安中期から末期、この時代に対する捉え方の変化を思い出しながら考えてみた。雅な世界として描かれることが多いが、研究の成果も影響するだろうが、経済状況も捉え方に影響してるのではないかと思える。

50~60年前の日本史では、明治維新までを教えることが多く、平安時代などは日本独自の文化が熟成されたと記憶してる。何となく憧れる、雅やかな文化の花が開いた、と思えるようなことだったと思う。映画「羅生門」を見たときには、習っていた日本史とは違うように感じた。

とはいうものの祖父から聞いてた、この時代のご先祖様達の生活は厳しいもので、まともに生活が出来なかったようだ。生活苦のために書や兵法などの家庭教師的なことをして、やっと食いつないでいたと聞いていた。縁ある人が東国に趣くときに呼ばれ、都を離れたのが平安末期の頃で、長行李三コリと従者30人程度で、周囲を野盗から守られながら今の土地に着いたと聞いている。華やかな貴族社会と庶民とは全く違い、平安末期の頃の庶民は相当に貧しい生活であったようだ。

高度成長期には日本史の光の部分、日本文化の良いところばかりを教えられたように思う。それがバブルの頃に成ると、地方経済と都市部の経済の違いはハッキリしてきた。土地価格は上がり、何でも高ければ良いように浮かれていた。それに引き替え地方は、特に農村部などはしだいに現在の状況は時代遅れで惨めなもののように感じられた。

この頃の平安時代の描き方は、特に平安中期から末期の藤原氏の摂関政治が力を持った頃、優美な貴族社会に比べ民衆は貧困生活になったと書かれていた。一条天皇の御代に道長邸が消失し、わずか2年で大邸宅の新築が成った。道長のために諸国の受領が資材搬入に動いた。新築がなった時、任国から源頼光が家財道具一式全て献上品として運び込んだ。その運搬の長い行列を都の者に見せることも、みな道長の威光にあやかるためだ。庭石を運ぶのも、大勢の石引き職人が携わり、これ見よがしに豪華なものだった。という実資の「小佑記」が引き合いに出され、書かれることが多かった。そして新築成った土御門殿での宴で「この世をば~」である。30年という長い低迷期が続き、現在のテレビドラマでは道長は良い人になっている。

いささか穿った見方かもしれないが、その時代時代の状況で、国民の意識操作を行っている、などと考えるのは間違いかな。

『栄花物語』に付いての新しい資料の発見など聞いてないが、むかしはこれを書いたのは誰だか分からないという事だった。その後、前半部を赤染衛門が、後半部は他の者が書いたとされた。現在は赤染衛門と夫の大江匡衡の共作といわれるようになった。大江氏は国史を記す家系だそうだ。赤染衛門と大江匡衡の子孫は、大江広元や吉川・毛利氏などに続いている。

これからの日本経済の上昇を願うときには過去の華やかさを、浮かれているときには引き締めを図っているように思えてしまうのだが。考えすぎかな。

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