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最期に残す言葉や後悔

 和歌のことを少し勉強し始めて、辞世の句でも作ろうと思い立ってはみたもののは、想いを込めるというのはなかなか難しい。まして短歌形式にしようと思うと、俳句よりも難しい。いっそうのこと、俳句形式で書いたらと思ったが、死ぬという季節が定まらず、季語を決めかねてしまった。そして何よりも、省みるような事など思い浮かばない。

 人生最期の言葉、いろいろと思い出す。叔母が病床で、叔父の手を握りながら「ごめんね、先に逝ってしまって。長い間お世話になりました。ありがとうございました」と感動的なイヤミを遺したそうだ。イヤミというのは、叔父は相当な遊び人だったからだ。

 遊び人で思い出した。もっとも面白いのは、外に大勢の女性を作り、会社の経理や経営など、全てを奥さんに任せていた社長がいた。その奥さんの病床で「いろいろと迷惑ばかりを掛けてきてすまなかった」と言ったら、病床の奥さんがニッコリと微笑んで「お互い様ですよ」と言ったそうだ。重病で詳しく聞けずに亡くなってしまい、最期の「お互い様ですよ」というのが気になったという。父達にも、陰で男遊びでもしていたのかと聞いたらしい。そんな事が気になり、夜遊びが収まったとか。父に言わせれば良妻賢母の鏡で、会社も子ども達の教育も、あの人がいたからこそで、あの言葉は最期の大きな仕返しだろうとのことだ。

 朝から下らないことを考えていたら、大叔父の最期の言葉などを思い出した。病床にて何気なく語った、大叔父の悔いについてだ。その時の言葉を、いかにも教訓的に書いてみよう。

 いろいろなことをしたが、出来なかった事に悔いは無い。本当にやりたかった事を、しなかったことに悔いが残る。

 そんな風なことを、ただボーッと病室の天井を見ながら、独り言のようにつぶやいていた。大叔母もいなくて、二人だけになった時の重苦しい空気の中で、何気なくボソッとしたつぶやきが、大叔父の最期の言葉になった。

 大叔父は父の親戚の中では本家筋に近く、父の独立にも尽力をしてくれたそうだ。事業内容は知らないのだが、事業拡大してかなりの資産を築いた。病室は広い個室で、沢山の見舞い品が飾られていた。何人かの議員の名前もあって、付き合いの広かったことが感じられた。

 間もなくして執り行われた葬儀も、かなり豪華に盛大に行われ、あの派手さはあの人らしいと陰口も聞かれた。いわゆる豪快で「やり手」というと言葉を聞くと、あの大叔父を思い出すくらいだ。

 そんな大叔父が最期に「出来なかった事よりも、やりたかった事をしなかったことに悔いが残る」と言ったことに、あの頃はチョットした感動を受けた。何をしようにも遅すぎると思える今の歳になると、あらためて、大叔父の言葉が重く思い出させられる。真剣に受け止めていたら、少しは自分の生き方も変わったのかなと。大叔父も父と同じく、妙な家訓に縛られていたのだろう。

 ご先祖様が今の地に来てから随分と経つ。源平の戦いでは、足利義兼について出陣し、源義経の元で戦ったとか。相当な創作話だろうが、その頃から同じ土地に住んでるので、代々の当主の生没年月日は、ただ一人「清吉」さん以外は記録に残ってるらしい。

 清吉さんは江戸時代後期に、買場(かいば)という定期的に立つ市場周辺をまとめていた庄屋の三男で、婿に入った人だ。畑仕事はしなくても良いという条件だったが、いわゆる「サンカクダ」という一区画だけは、代々の当主が一人で耕さなくてはいけない。日がな一日、農作業もせずにノンビリと過ごしていたが、当主が亡くなり、清吉さんが主家の当主になった途端に親族からの風当たりが強くなり、数年で実家に逃げ帰ったそうだ。

 出戻り婿殿は庄屋さんの家でも厄介者として、最期は一族の並ぶ墓はおろか、同じ菩提寺にも葬られることがなかった。墓も見つからず、記録も見つけることが出来なかった。というのが、むかし叔父が調べた結果だそうだ。厄介者扱いされていた割には、ろくに働きもせず一生を書画骨董や女遊びをしていたそうだ。野っ原のシャレコウベで捨てられても良いから、そういう生き方をしてみたいと言ってた。

 誰でもみな、束縛されずに自由にやりたいことだけをして生きていたいと思うのだろう。社会通念とか、家訓のような縛りを子どもの頃から叩き込まれると、常識人や人格者として崇められるのだろうが、人生を終わる最期には、何もしたいことが出来なかったと悔いを残すのだろう。

 母の最期の言葉は「汚い?」の一言で、今でも思い出しては悔やまれる。

 癌で入院して、最期の1ヶ月くらい前に強引に自宅に戻り、家の中を片付けた。事務机の中やタンスの中も片付け、紙に指示まで書きのこして、一晩過ごして従業員に挨拶をして再入院した。息が荒くなり、ゼイゼイして冷たい物が飲みたいというので、コカコーラを買ってきた。チョットだけ唇をぬらして、要らないと渡された。それを一口飲んだが、元々コーラが嫌いだった。母も炭酸のコーラは飲めなかったのだろう。横に置いたコーラを見て「汚い?」と言ったのが最期になった。それから危篤状態が続き、何も話しをせずに別れとなった。

 モルヒネも使わずに、痛みを見せずに片付けるとは、と通夜で家に戻った時に話題になった。それ以上に、コーラを飲まなかったことが申し訳なくて、通夜の晩に母の布団に潜り込み、硬く冷たく小さく細くなった手を握って横になった。

 妻が10年前に亡くなった。10ヶ月間を掛けて、少しずつ衰えて死んでいくのを、毎日介護をしながら見ていた。結婚以来、ずっと実家の義母のことで別れ話や喧嘩が続いていた。余命宣告を受けて、個室に入院させ、夜間も同じ部屋に泊まって過ごした。喧嘩ばかりしてきたが、一つの部屋で二人だけで過ごし、本当はこの人の事が好きだったのかも知れない、心底そう思えて涙の出ることもあった。

 残念な事に、やっと二人だけで語る時間が持てたのに、妻は無口になっていて、とうとう最期の言葉が聞けなかった。「ありがとう」でなくても良い、恨み言でも良い、最期の一言、お別れの言葉が聞きたかった。何に付け、人生って一人では生きて来られなかったことを実感してる。もっとも身近な者には、たった一言でも遺すべきだ。

ゆき疲れ のちの家族は 猫ふたり・・・なんて

 で・・・、今は子ども達が独立して、独居老人、優雅な独身生活を謳歌している。心臓やその他、体調は良くないが、自分の最期は自然に委ねたい。たぶん逝く時の看取りは猫ふたりだろう。なんとか、格好良い言葉として「辞世の句」を書き遺しておきたいものだ。


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