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ご無沙汰しております、みちるです。


 


12月24日(日)、29日(金)、1月1日(月)、19日(金)、20日(土)、27日(土)、2月2日(金)


メモです、よろしくおねがいします。


「なんで?」


メモが必要な時がありますね。これは今などを指します。


「左様ですか」


イエス。


 


(間奏)


 


ノスタルジーについて。

ノスタルジックなものへの憧憬、があることは誰もが知ることであろう。では、「ノスタルジックなものへの憧憬」への憧憬、はどうか。

今更こんな話をするのも馬鹿馬鹿しいと思われるだろうか。そう新しい話題でもないから、飽き飽きといった顔つきで見守る方もいるだろう。


もはや有り得ない種類のこのいわば二階のノスタルジーは、端的に言って滅んで然るべきものだ。

我々の方法は、こうしたどうしようもないものからなるだけ離れたところで考えられるべきだろう。しかし、身体が受けとる刺激としてのノスタルジーについて否定することは不可能である。この状態に鑑みて私がとるべき態度は、ノスタルジーから逃避することでもなければ、それに甘んじて幸福に生きてゆくことでもない。ノスタルジーを破壊し、現在を生きる私の身体に対する現在のものとして再構築することである。


この考えに私を導いたのが、「伝説」と呼ばれるに相応しい一夜の出来事、或るバンドの一公演であった。

ここでは評を述べることも、対象について明かすこともできない。ただひとつ、あれは私の陳腐な「あこがれ」を打ち壊すのに充分なエネルギーとベクトルを有する何かだった。


「これはこうだから、ここがこれに基づいていて、ここにこの意味があって、ゆえに素晴らしい。ではなく、何だか分からないけどすごい、で良い」


これは非常に正しい言説であったが、しかし既に失効してしまったものだ。「何だか分からないけどすごい」を受け入れることは、あらゆる批評家やそれでさえない者たちにとっての克己になり得る行動だった。

もはやそれもクリシェと化し、それ以前にも戻ることができない。こうして身動きの取れなくなった我々に、何十年も前のその作品が光を見せた。


何者にも詮索させず、意味を棄てさせ、身体にアプローチする。そのような目論見を有した作品はそう多くないまでも僅かと言うにはよく見られる。ただ往々にして、それを成功させるために必要な「有無を言わさない何か」が欠けている。少なくとも私は、指折り数えるほどそうしたものに出会ってきたのだろうか。


彼らは、それをやってのけた。


当時日本ではライブ映像が真夜中のシアターでのみ上映されたことにならい、一晩だけ、人々の眠る時に我々だけが五感を研ぎ澄ませていた。私の隣には友人が立ち、ヴォーカルの身振り手振りに合わせてきままに音を楽しんでいる。私は私を見ている者は誰もいないことにして、霊感ともいえるような具合に彼らの姿を感じていた。

スクリーンに蘇った彼らの細い肉体が、爆発にも近いような衝撃を生じさせる。そこには奇妙なルールがあり、しかしそれはクラシック”な”文脈では説明不可能であるように思われる。彼は私の数列やルールを理解するだろうか――勿論「何故」ではなく、そのルールが存在するということを承知するか、という疑問。私はこれを切り捨てることができない。


愛している。疑いなく、私は彼らを愛しているし、加えてそれで何かが返されることはない。それが普通のこととして私自身に受容されるという事態が何を意味するか、説明するべくもない(現状、日常において何かを意味することについては否定あるいは拒否することができない)。


エッセンスは、目に見える最少の一粒で構わなかった。それが溶けた水はもはや、人間をして飲み下せるものではないから。


またお手紙書きますね、大好きです。    みちる