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なつやすみのにっきにしては

ごきげんよう。夏休みを満喫しているあやめでございます。

こちらはやっとこさ課題に解放され、マア今度は就活に追われることになりましたが、なんとかたのしげにやっているところであります。みなさまいかがお過ごしでしょうか。打ち水してかき氷食べて、足をたらいに入った氷水にひたし、扇風機の前で「あ゛~~~」とか言いながら風鈴の声を聴く、などという風流な生活ができる程度の暑さならよかったのですが、残念ながら関東山地に入っているような我が家も、酷暑から逃げられる訳もなく、冷房の効いた部屋から出られずにおります。でも、せっかくの太陽をいかさない手はなく、布団を干したり掃除をしたり、洗濯物を何度も干したり、せっせこ働くこともありまして、汗びしょになりながら、目をバッテンにする日もございます。

それから、アルバイトを一生懸命にやっているところであります。そんなにたくさんシフトに入れているわけではないのですが、あんまり上達せず、というかあんまり気性にあっているところではない職場であるようで、なかなかなじめずにおります。おやア?と思っているのですが、はじめてしまったので、もうすこしやってみようか、と、こちらも目をバッテンにしております。そんなアルバイトで出会った人々は私ととことん趣味が?志向が?思想が?……上手に表現できませんが、なにかがおおきく違っていて、話すたびいちいちカルチャーショックをうけております。そう思っていたら、むこうもどうやらそうらしく、「あやめさんってめっちゃおもしろいよね」といわれてしまい(おもしろいことはなにひとつ言っていないので、その方はあるいは「滑稽」と表現したかったのかもしれません)、「?」となったり、その帰り道に、たしかに私はヘンな日本語の選び方をしているかも知れないな……?と思ったり、今後このヘンな選び方をするクセは人(交友関係)にどんな影響を与えるのだろうか……?(壮大)と思ったり、私は面白くて、かつ適切でExactlyなチョイスをしていると思っていたけれど、伝わっていないならそうでもないのか……?と思ったり、わたしってやっぱりハズレなのかな、としょんぼりしたりしました。わたしはどうやら、この「はずれ」ている感覚と一生付き合うようです。しょんぼり。

さて余談ですが、先日日本女子大学文学部日本文学科(大学院文学研究科日本文学専攻)の公式X(旧Twitter)で宣伝されていた「太宰治ワークショップ」なるものに、実は私も勇んで参加いたしておりました(こちらに関してはまどかさんの8月8日分のブログに詳しいです、勝手に登場させたまどかさんすみません)。ただ、私は太宰治に深い造形があるわけでも、(それこそたとえばまどかさんほど)熱意!!があったわけでもなく、(舐めた態度で)でかけて行ったために、あまり有用なお話をすることはできませんでしたが、参加されたみなさまは、どのかたもとても博識でらして、とても勉強になりました。へえ、太宰治ってそんなことになってるんだ……?とおもって、びっくりしてかえってきました。一応「文豪ストレイドッグス」は読んだことがあったのですがネ。私の造詣が浅かった。さておき、このワークショップは、ほんとうにおもしろかったのでみなさまにもぜひ議事録などをチェックしてみてほしいな、とおもいました。ただし今年の分はまだ公開されていないので、もう少々お待ちください。余談、宣伝?でした。日文の公式ブログ部なのでね……とドキドキしながら言ってみました。

本当に余談ですが、上記のイベントでそんなまどかさんとお話しすることもできました。意外にもブログ部員のなかまを大学内でお見掛けすることがなく(お会いしていても私の視界が狭く、気づいていないだけなのかも知れませんが……その場合はシンプルに私がご無礼を働いているのでお詫びいたしますが……)とても嬉しかったのでここに記しておきます。まどかさん、お話ししてくださってありがとうございました、と、今回は何度も登場させてしまいまして、ごめんなさい、の気持ちと共に間接的に申し上げておきます。みてるのかな……

あこがれはオレンジ色をしている

家具屋があった。

通学路の道路を挟んで向こう側にある。

3年間通ったこの通学路の向こう側に、臆病者の私は行ったことがない。大したことではないのに、向こう側に行けないでいる。

その家具屋の照明がオレンジ色をしている。

彼女はしかし、道を渡って向こう側に行こうとしない。効率主義の彼女は寄り道ができない。あるいは「寄り道」ではなく、「常」から外れることこそが嫌なのかも知れない。

家具屋はそんなことを知らない。いつもオレンジ色の照明をつけて、(彼女の目には)ひっそり営業している(ようにみえた)。そこに、えもいわれぬ憧れがあった。

彼女の友人に、横澤というのがいた。横澤は目が悪く、ビン底眼鏡をかけていた。コンタクトレンズはポリシーに反するからつけないらしかった。そういう「我」がおもしろくて、彼女は横澤に惹かれていった。荷物はいつもパンパンで、そのパンパンのカバンからなんでもでてきた。絆創膏、修正テープは序の口で、ウェットティッシュ、マスク、ホチキス、替えの靴下などがあることを、すでに彼女は見て確認している。なんでも入っていた。出して、と頼めばエプロンとかも出てくるだろう。しらんけど。

横澤はいつもオレンジか黄色を着ていた。彼女はファッションやら流行やらはからきしだが、横澤は(流行かどうかはさておき)好きなファッションの系統がハッキリしていて、それが妙に似合う人であった。それが、オレンジか黄色だった。時々赤も着た。彼女はそれがすごいのかなんなのかもわからず、似合っているんだろうな、と思った。ギラギラの黄色ではなくて、見るとホッとするような黄色だった。それは横澤そのものでもあるように思えた。なぜなら横澤は、いつもパッと花が咲くように笑うからだ。彼女は無愛想で有名だったが、横澤はビン底眼鏡でも人気者だった。ビンぞこメガネはなにも悪くないのだと知った。彼女もまた、目が悪く、ビン底メガネである。

さて、彼女には趣味がない。仕方ないから暇を持て余すと、チミチミ将来について考える。腹の足しにもならないのに、と思いながら、妄想を膨らませて、脳みそが四角四面に整理されたら、満足して思考をとめる。図書館に朝1番に行って、気が済むまで思考をガサゴソ、ああでもない、こうでもない、として、気がついたらもう閉館時間だったこともある。横澤は、とりあえず動くタイプなので、彼女をみて、「うへぇ」と言った。ちなみに横澤は多趣味なので、そんな暇は持ち合わせていない様子だった。

繊細についての一考

葉っぱの上に水滴が乗っているのをみて、ただの朝露にすぎないのだけれど、やっぱり、葉っぱから液体が溶け出したように見えてしまい、全然そんなわけがなくて、1人でがっかりしてしまう。目に鮮やかな緑色をしたその葉は多分私よりずっと若くて強い。その上にのった水滴だから、それをのんだら若返るのかも、などと思い、いや、お腹を壊しておわるか、と思い直す。だから、何というワケではない。ただ、この、お腹を壊すだろうな、という考えが先に出るようになったら、おとなになったということなんだろうな、と思う。今の私は、つまらない事実ひとつひとつに丁寧に反応する柔なんだろうか。はやくつよくなりたい。もっと水分が抜けてほしい。はやくおとなになりたい。

なんだかんだの予定が出来て、私は割と長期休暇中も大学に行くことがある。長期休暇中にわざわざ大学に来る人はやはり稀と見え、建物のワンフロア貸し切り状態のこともよくある。誰もいない杏彩館。とてもスッキリした気持ちになる。そういえば、私は昔から、誰もいない教室が好きだったな、と思い出す。小学生時代は学級委員みたいなものになりやすかった私が、もろもろの仕事を終え、遅くなってから教室に戻った時の、あの満足感とか、高校生時代の、体調不良のなか、出席数の関係で今日はどうしても来なければならない、と(しぶしぶ)登校するも、今は移動教室の授業中で、教室(クラスルーム?ホームルーム?)には誰もいなかったときの、あの安心感とか、ひとりで何か考え事をするのが好きな内気な気性が、この気持ちを生んでいるのかな、と思う。逆に申し上げれば、普段、人がたくさんいる教室みたいなところは、大の苦手という事である。特に大学は、制服みたいなものももちろん無く、色とりどりな人々が、いろんなお話を、一堂に会してしているので、匂い・色・音があふれかえっている、といえる。刺激が強い、というと、かえって私の「繊細さ」が強調されるようで、それは不本意だから、情報が多い、と表現しようと思う。さっき葉っぱと朝露だけであれだけ感動できるのをお伝えしたところだから、あなたならきっと、私の弱さ・つまらなさ・取るに足らない様子が、ありありとわかっているだろうから、確かに情報量が増えれば増えるほど私にとっては息苦しいのが、理解できると思う。若さ、と、それだけで片付くことだろうか。私が悪いのか。

そこまで考えて、杏彩館に人が入って来たので、しょんぼりしながら、ここにはもう居られないな、とおもい、荷物をまとめた。

たとえ話

たとえ話が昔から得意だ。というのも、誰かに説明をするときに何かに例えることが多く、しかもそれがなかなか好評だったから、ああ、たとえ話がうまいのか、と判断したに至る。

たしか高校時代の化学の授業中に、「mol」とかいうヤツにであったとおもう。そいつがなかなか難解な奴で、教室はおののきの声で満ちていたように覚えている。重さは違うけどこれも1mol?1molのこれと2molのこれが反応してできたのが1mol?どういうこと????というような混乱があったような記憶がある、が、いかんせん五月雨登校の不真面目学生であったから、確かなことは覚えていないし、全く間違えている可能性すらある。ただ、これに対して、1個の飴ちゃんを2枚の包装紙で(丁寧に)包装している、1つの商品(飴)ということなんじゃない?とか適当を申し上げたところ、困っていたその方が賢かったおかげで、私の適当を聞いて10を知ったと見え、「おおなるほど」、と腑に落ちた様子になっていたことはしっかり覚えている。自意識の塊である私には「ほめられた」とか「評価された」とかが一大事件なので、そんなことばかりはしっかりちゃっかり覚えている。

さて、つっかけをズルズルやって、ダラダラ歩いていると、雨が降ってきた。春雨じゃあ、濡れていこう、というのもさすがに気取りすぎなので、なにか別な言い方がないものか、と考えている。懐手をして。していない。