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この世に読まなければならない文学なんてものは存在しない。だからこれを読まないとダメだとか日本人なら必ず読むべきだとかそういうことを言っている人が私は好きではない。文学は所詮娯楽であって漫画やゲームと何も変わらないし文学だけが高尚なものだとか芸術の一種だとかそういう考えは一切捨てて普通にふむふむ面白いなあと軽い気持ちで読めばそれでいいのだ。


たまたま自分がふむふむ面白いなあと感じるものが近代文学であっただけで難しそうな本を読んでいて凄いねとか頭がいいねとかそういう話ではなくただ私が時代錯誤なだけだ。大抵の人はゐとかゑとかいう文字が出てくる小説をニコニコしながら読まないし現代人に親しみやすい分かりやすい言葉が溢れている時代にわざわざ旧仮名の小説を読む必要がどこにあろう。読書量が少ないとか近代文学を読んだことがないとかそんなものは恥ずかしいことでもなんでもないし自分がそういう文学が好きだからと言って文学に親しみのない人を馬鹿にすることがあってはならない。


しかし読むべき文学が存在しないといえど読んで欲しい文学は多数存在する。その一つが島崎藤村の破戒である。私は高校二年生の時に初めてこの小説を読んで読めば読むほど作品の中に飲み込まれていって最終的には丑松が告白する場面で丑松と共に涙してしまって今でもあの感動は忘れられない。壁に仕切られた塾の個室で誰にも見られないようにひっそりと涙をこぼしながら電子辞書で破戒を読んだ秋の日の寒さ。そんな高校時代のたった一ページが卒業論文になるのだ。


島崎藤村はジットリした文章を書くので私のようなせかせかした文章とは真反対の位置にいると思う。だから文体という面では私は藤村からあまり影響を受けていないことになる。普段の私を見ていても格別藤村が好きな人には見えないと思うしそもそも藤村が好きな人が珍しい気もする。自然主義文学が大好きですという人に私はまだ会ったことがない。おじさんのせいよくが赤裸々に描かれていて気持ち悪いですという人には何人も会ったことがある。破戒は蒲団とか新生とかその辺とは違う自然主義文学だから破戒好きイコール自然主義好きにはならないけれどそれはそうと女子大生には安吾とか太宰が人気で流石だなあと思う。


破戒について研究した内容は全て卒業論文の中でぶつけるからブログでモジャモジャ言う気にはならない。こんなことを言ってしまうと過去の先輩方がこの時期に自身の卒論について分かりやすく説いていたことを思い出して涙が出てくる。ブログ部として活動してきてもう大学四年生になってしまったけれど一向に上品な文章が書けない。雑草がいくら頑張ってもペンペン草にしかなれなくて一生かけても花壇に咲いている花にはなれない。そんなことはどうでもよくてとにかく私は卒業論文を書くのが楽しくてワクワクしながら筆を進めているからみんなもそういう作品を題材にして欲しい。好きなものを題材にすれば全く苦ではないから。私は四年間好きなことだけ勉強してきて得意分野で戦ってきてとても楽しかった。


大学を歩きながらああもう卒業してしまうのか私は後何回この大学内を歩けるだろうかと考えて悲しくなった。行きたい大学ではなかったから他大学に編入しようとか院から違う大学に行こうとか考えていたけどあまりにも日本女子大学がいい大学過ぎて友達があったかくて先生が優しくて私は一生日本女子大学を背負うのだと決めた。大学在学中私生活は穏やかでない日も多々あったけれど大学の中で嫌な思いをしたことは殆どなかった。ずっとずっと楽しくて楽しくてこんな幸せな学生生活は初めてだった。


小さい頃に窓際のトットちゃんとかココシャネルの伝記とかを何回も読んでいた私は人生なんてのびのび生きていいなんぼだし自分らしく生きることが何よりも大事だと思っていたけれど自分が生きてきた田舎はそんな思いが叶う場所では全くなくてずっと苦しい思いをしてきた。のびのび生きれば出る杭と見なされ打たれてひっそりと生きれば地味だと馬鹿にされなんの特徴もないそこら辺の平凡な普通な女の子でいることが成功で目立たず騒がず大人しくしておくことが美徳だった。


でも私はやっぱりそんな普通の女の子たちより黒柳徹子さんが魅力的に見えたしココシャネルになりたかったしそういう自分の性格と平塚らいてうを輩出した大学がシンデレラフィットしたのだ。自分の気持ちを惜しみなく表現できる学部学科に手招きされたのだ。我が四年間に悔いなし。あれをすべしこれをすべしは一切ないけれど自分を信じ続ければきっと自分に合う環境は見つかるし人生なんて自分が輝ける場所探しだと思う。だから破戒の話に戻るけれど丑松のテキサス行きを誰も馬鹿にできないし逃避でもなんでもない。丑松の希望の選択を私は私のために推していきたい。


もこ