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脳みそではなく、「手」が考える

 モノがモノを引き寄せる、ってことがあるんですかね?

 数年前、46年も前に亡くなった祖父の遺品がぽろりと出てきましてねえ。
 それが60年代のモンブランの万年筆だった。当たり前に、中でインクが固着していて使えない。
 万年というぐらいだから修理すれば使えるだろうとメーカーに持っていったら、修理代が耳を疑うほどべらぼうに高い。ふざけんな、ドイツ人。

 じいちゃんの形見をあきらめるのも悔しかったので、ほうぼうにあたり、ずっと安く修理してくれるとこを見つけました。さすが息の長い文具だけはあって、專門職人も多いんですね。ニッポンの職人、万歳。

 で、50年前の万年筆。
 これが驚くことに、ペン先が柔らかく、スルスルと紙の上を滑る。インクはぽってりと流れ、とても気持ちがいい。ほかの筆記用具では味わえないエロティックな感触に声が漏れてしまいました。

1960年代のモンブラン

 その半年後。
 今度は親父の遺品から万年筆が出てきた。70年代あたりのパイロットの万年筆。モンブランとは違う感触でしたが、これもとても書きやすい。日本製もいいじゃないのー。

1970年代のパイロット万年筆

 さらに半年後。今度は親戚のおじさんから、もう使わないから、と手元にやってきたのが、70年代のこれまたモンブラン。口惜しいけれどすごく書きやすい。ドイツ製品はすごい。

1970年代のモンブラン・マイスターシュティック146

 そして、1年後。
 またまた別の親戚から使えと渡されたのが、70年代のモンブラン。
 こうまで続くとなんかの陰謀かとも思う。
 ところが、これがたいそう立派な万年筆で、さすがに腰が引けました。しかし、太い軸がえらく握りやすく書きやすい。やっぱ、モンブランってすごいんだなと、ドイツ製に完敗宣言。

1970年代のマイスターシュティック149

 いま、モノを書く時はパソコンでキーを叩くことがほとんで、あえてペンで字を書くことは少なくなりました。シナリオも専用ソフトで書いております。

 しかし、シナリオを書く場合、いきなり書き出すことはできません。おおまかな粗筋をシーンごとに分けた「箱」とよばれるものを作ります。

 ところがそれもスタートではなく、ボクの場合、まずノートを用意します。
 そこにテーマとか、人物の設定とか、ストーリーの方向、リサーチした資料や文言などをひたすら書いていきます。

 この作業だけは、いまだに手書きなのです。

 なぜか手書きなのか、自分でもわからない。
 ただ、いったい、これからどんな物語ができるのか、どんな人物がでてきて、どんな事件が起こるのか、ボク自身にもさっぱりわかっていない状態で、それにむかうにはどうしても手でペンを持つほうがシックリしてしまうのです。

 「スターウォーズ」を作ったジョージ・ルーカスもおんなじこと言ってるのを聞いて、ちょびっと安心しましたよ。

 「いくらお金が準備できても、始めるのは白い紙と鉛筆と消しゴムからだよ」

 と、白い紙の上に数本の鉛筆と消しゴムを見せる。
 ああ、この人も手書きから始めるんだ、と。

 しかし。

 目の前の白紙というやつには、とんでもない威圧感があります。

 そのうえ頭の中も、けっこう白紙。

 なんど、森の小人が現れてくれることを願ったことでしょう。朝起きたら、白紙が全部、文字で埋まっている。ドラえもんと同じぐらいそばにいて欲しい。

 いくら願ったところで、朝起きれば机の上には真っ白な紙。

 小人をあきらめペンを持って、白紙を前に座ります。一行書いては手が止まり、そのまま1時間経ち、2時間経ち。白紙はわずか2、3行しか埋まっておりません。
 もう苦しくて逃げ出したくなります。

 そういう苦行のような時間を経て、ようやく踏ん切りがつきます。

 まとめようとしなくていい。気のきいた言葉もいらない。

 下書きなんだから、人に読ませるわけでもない。

 とにかく思いつくことをひたすら書け、吐き出せ、と自分にいいきかせる。

 開き直って、前後左右の脈絡も無視して、思いつく言葉や文章をどんどん書き始めます。字は判読できない汚さ、内容はメチャクチャです。それでもひたすら頭に浮かんでくる言葉を書き続けます。

 どのくらい書いたか、どのくらい時間が経った頃なのか、とつぜんそいつが来るのです。

 頭のなかではもう言葉も枯れてなにも考えられない状態になっているのに、ペンだけが、勝手に動き始めるんです。手が意志をもって動きだし、物語を書き始めるのです。

 ライティング・ハイ

 とでもいいましょうか。頭の中は瞑想か、トリップしてる感じなのです。

 手がかってに考えて、かってに動いている。

 手が生み出すものは、それまで頭で書いていたことをいっさい無視しやがる。
 一行前に書いたものさえも否定する矛盾のオンパレード。整合もいっさいなく、手は自分の思うままに大量の文章を書き進めていきます。手が書いている最中は、一行どころか3、4文さきの言葉さえ、ぼくにはまったく予想がつかない。手が書いた言葉を見ながら、ただ感嘆するばかり。

 ところがですね。

 その大量の支離滅裂な文字列のなかに、書き始める前の自分ではいくら考えても思いもつかなかった言葉や展開、構成の書かれた文章や文節が埋め込まれているんです。
 これがとにかく驚いてしまう。
 さらにそれが、次第にきちんとまとまりのある文章に収斂していくのがとても不思議で、最高に面白い。

 なによりこの瞬間は、得も言われぬ快感があるのです。

 この快感が味わいたくて、ぼくは手書きをやめることができないでおります。

 ものを考えるというのは、実は頭の中の作業ではなく、身体の各部分にちゃんとその機能が備わっているのかもしれません。
 そのスイッチが入り開放される快感は、きわめて生物的な、フィジカルな生理に近い。平たく言えば、食欲が満たされた瞬間とか、力まず流れるように腸内すべてのうんちが出た瞬間とか、SEXの快感とか、そんな類いと同じではないか。

 手にはきっと脳みそがあるにちがいありません。

 ぼくはこれまで手や肩に力が入らず、柔らかい力で文字がおとせる5Bとか6Bの軟らかい鉛筆を使っていました。最近では集まってきた万年筆を使うことが多くなりました。万年筆は鉛筆より文字の表現が多彩でメリハリがありながら、力を入れず書けて、とても楽ちんです。
 なによりエラくなった気分になる。

 万年筆は文豪、大作家の先生方のアイコンといってもいいですね。
 写真でみると、たいてい愛用の万年筆を持って写っていらっしゃる。大量の文章を書くには、やっぱ万年筆は楽だったんでしょう。
 が、意外に先生方も、ライティング・ハイをご存知で、快感の道具に使っていたのかもしれませんぜ。

 ただ、おなじモンブランを使っていても、才能はまったく別次元の別物だということは、身にしみてわかっておりますよ。

(2016年12月17日記)

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