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槍と合気道22

『合気会報』記載のとおり、戦後、植芝合気道誕生当初はモタモタしていたようであるが、指導者が変わることにより、合気道の躍進には目を見張るものがあった。それが藤平光一氏であったのだ。なぜ彼が、彼よりも技術水準が高い諸先輩を差し置いて、戦後いち早く植芝合気道総本部の最高位・師範部長の地位に収ることが出来たのか。
ここに、当時の植芝合気道のセールスポイントを端的に著した「野球と合気道」に関する資料があるので紹介する。昭和38年5月週間読売に掲載された記事である。
補足説明:この記事については、別稿で既述しましたので、ご参照ください。

藤平光一氏については、縷々記載のとおり「師範部長の地位に収った時点で、既に将来脱会しなければならない宿命的要素が発生していた」といえるようだ。
 
さて、「合気道とは何か」を説明するにあたり、その各論として戦後植芝合気道の実質的な創始者とみられる藤平光一氏に焦点をあてて説明してきた。「合気道とは何か」を知るためにはその前提条件が7つあると私(鶴山先生)は考えている。
複雑な合気道界の真相を、下地として知っておかねばならない。
現在の合気道界の主流(組織・構成人員)は、技法を少なくして大衆指導方式をとる植芝総本部系の合気道である。そのため植芝合気道とは何かを知っておかねばならない。
合気道を表看板にしている人たちの中には、植芝合気道と全く関係のない人たちもいることを知っておかねばならない。

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