見出し画像

信長・秀吉・家康から史観的に大東流関係者を見ると

鶴山先生は、戦国三武将から史観的に大東流関係者を見るとどうなるか?
というおもしろいメモを残しています。

織田信長には、天才的な創業者としての器量があったし、豊臣秀吉にはその業績を受け継ぐだけの器量があった。だから豊臣時代を築くことができた。しかし、歴史的史観でこれを眺めると、信長も秀吉もその創業した地盤を長続きさせる能力がなかったことがわかる。
信長は自己破産することを覚悟の上で、自分の人生を50年限りと見て、あらゆる常識や考え方を打ち破った危策(奇策)で「天下布武」のみを目的とした革命家であった。
秀吉は時運に乗った放漫経営者が事業で失敗することと同じ朝鮮出兵という政策的失策をおかし心労から病気になる。
二人の死に方を目の当たりにした徳川家康は、このような失策だけはやらない待ちの政策をとり300年の統治を実現した。家康の特色は、信長時代はともかく、秀吉の臣下にはならなかったことである。

大日本武徳会の柔道、剣道の全盛時代の中で、対柔道、対剣道の技法で普及活動をした惣角の行動は、創業者であった信長に最も近い。当然、その技法を持って世界の合気道とした植芝盛平は今太閤なのである。太閤亡き後の秀頼は二代目道主の吉祥丸なのである。秀吉(盛平)の下には石田三成がいたが、これは藤平光一。前田犬千代(利家)は静岡の望月稔。千利休は富木謙治である。となると、斉藤守弘は?砂泊誠秀は?となるが・・・、家康はだれであろうか、我(鶴山先生のこと)しか他にそれらしい関係者はでていない・・・

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?