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髙嶋(コウシマ)姓について~北海道利別村河島家のルーツを辿る(5)(白頭狸先生著『京都皇統と東京皇室の極秘関係』を読む・番外)

ただいまわが河島家のルーツを辿っておりますが、いずれ故地である岐阜県郡上市白鳥町を訪れ、ご先祖様のお墓参りを済ませたいと思っておりますが、いまはその下準備として自分のできる範囲で調査を進めているところです。

現在明らかとなっていることは「播磨の国において髙嶋(コウシマ)の姓を受けた髙嶋市郎兵衛が、応永4年(1397年)に郡上郡にある白山中宮長瀧寺を尋ね、そこで仏門に帰依し、帰農した」ということです。

ここを起点として気になるところを調べていこうと思っておるわけですが、前回お話したように白山中宮長瀧寺を尋ねた際に刀剣を所持していたとのことです。

その刀剣には「宗吉」とあり、「応永元(甲戌)年二月六日」の作と銘打たれていたそうです。実際の刀剣がどのような刀剣であったのかは資料には残されておりませんでしたが、もしも現存するのであれば是非ご尊顔を拝したいと思っております。

「宗吉」というのは刀工の名で、日本刀の名産地とされた五つの国(五箇伝)のうちの一つ「備前国」に存在した名工として知られています(他は大和国、山城国、相模国、美濃国)。

備前国は、播磨国の隣に位置しておりますので、播磨の国で姓を受けたとする髙嶋市郎兵衛が備前国に由来する「宗吉」の刀剣を所持していたとしてもおかしくはありません。

ただし宗吉が活動した時期は鎌倉時代の初期であり、刀剣に銘打たれていた足利時代の「応永元年」とは100年以上の隔たりがあります。ですが刀工の名は襲名されることがあるようなので(三代目國家、二代目月山貞一など)、「宗吉」の名を継いだものが室町時代の応永年間に存在していた可能性はあります。

次に「髙嶋」という姓についてですが、『播磨国風土記』の揖保郡に「高嶋」という地名が記載されております。(兵庫県立歴史博物館)。福島好和教授によると「高嶋」は家島諸島に属する島の一つであったのではないかとのことで、髙嶋市郎兵衛が武士階級に属する一人であったとすれば、その名は地名に由来するものであると思われ、「髙嶋」という姓は播磨国揖保郡の高嶋から来たものであると考えられます。

スケルトンハウスきまぐれCafe様のサイトより転載)

また「姓を受けた」ということは、姓を与えた誰かがいるということですが、応永年間において播磨の地を治めていたのは「赤松氏」となります。

そこで赤松氏に関して調べてみたところ、時代は下りますが織豊時代に、織田信長麾下の将軍羽柴秀吉の中国攻めに際して播磨国上月城において赤松氏が評定した際の陣容が紹介されておりました。(「播磨屋」様のサイトより

まず上月城城主・赤松政範を家老として補佐した叔父・赤松正澄は別名「高島(高嶋)正澄」であり、城代の欄には「川島杢太夫頼村」「高島七郎兵衛正建」「川島三郎四郎義行」の名が並んでおり、この地において「高島」「川島」という名が存することを確認いたしました。

ただ家伝では「髙嶋」を「タカシマ」と訓まず「コウシマ」と訓むとされておりますので、そこに何らかの事情があるように思われます。また姓を受けた時期が「応永年間である」ということもポイントかと思います。

「高」を「コウ」と訓むのは、「名字由来net」様のサイトによれば、
①天智帝子孫の高階真人
②高階朝臣などにみられる。
③ほか高麗帰化族
④また東亜細亜(中国・韓国・朝鮮)姓にもみられる。
とあります。

この中で応永年間に関係があるのは「高麗」で、高麗が李氏朝鮮に滅ぼされたのが1392年となっております。応永年間は1394年から1428年までの期間を指しますので、時期的に関係があるような気がしているのですが、今のところ未詳です。

(ウィキペディアより転載)

これは、あくまで感覚的なお話なのですが「鴨緑江」や「吉林省」という響きに個人的に何か懐かしい感じを覚えるのですが、そのように感じてウィキペディアにて「鴨緑江」を調べたところ、その川の水源は「白頭山」より注ぐとのことでした。

白頭山は朝鮮民族の聖地とされる山ですが、ウィキペディアの続きを読みますと、古くは「不咸山」「白山」「太白山」と呼ばれたとあります…おや? 白山?!

髙嶋市郎兵衛が終の住処として選んだのは「白山」で…え?

これは一体どういうことなのでせうか。これは何やら関係がありそうななさそうな。明智(メイチ)ならぬ凡智ゆえ頓と分かりかねます。

と、久方ぶりに凡智小十郎が出てきたところで、おあとがよろしいようで…と参りたいところですが、もう少し「白山」についても調べていこうと思います。

(白頭狸先生のnote記事より転載)

頓首謹言


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