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信頼と回復

いま録音している曲について。思うところあり、筆をとる。

先日、デモを録音したところ、
口に出せない言葉が入っていることに気づき、まるで縁に立っているような歌声が録れた。
当たり障りのないテイクで覆い隠したいところだが、もうせっかくだから恥ずかしげもなくそのまま残してしまうか、という気持ちでいる。

自分で書いた曲なのに、自分で書いた言葉に現在の自分自身を問われる状況は、少しおかしい。

この曲を書いたのは3年前のことだ。
当時の動画などを確認すると、該当の旋律を歌うタイミングで身体を"ちょっと未来に"逃して表現している。
それは武道においては、いわゆる達人の技とされる類の身体技法だ。

歌う人間にとって、身体は時に、情念からのシェルターとなる場合がある。
身体に守ってもらわなければ、直面したら最後、壊れてしまうことがある。
痛みに直面する身体を少し時間軸の先にずらすことで、"上手"となりダメージをマネージできる。

だが、乗り越えるためには、
"今"の言葉として一度歌わなければならないのだ。 
いつかどこかの時点において。

たったひとつのテイクで直面せずに済んだとて、
瞬間が永続的に連続する日常において、逃げ続けることはできない。
いずれはその痛苦が身体に追いつく時が来る。

なぜ我々が現在に留まり、その上であらゆる苦楚に直面し続ける"べき"なのか。
それは心身も結局は日常に還るからだ。

あらゆるperformanceが再現であることは救いであると同時に、
エネルギーの循環があくまで"非日常"に取り残されるという点では、宝の持ち腐れであるといえるかもしれない。

真の意味で重心を整えたければ、現在に留まり、
その上であらゆる疼痛に対処し続けることが近道なのかもしれない。

心身をずらさず、逃れず。
とは言いながら、そのうちのたった一つに正面からチャレンジするのに数年もかかっているので甚だ途方も無い試みなわけだが。

かつて、representationへの信頼回復に課題を感じていた。
再現は再現である以上常に新しく、前進である…音楽をやる中では当たり前のことをなぜか、日常的に信じられていなかったのだ。

だが、今は違う。
8年の時を経て、ひとつひとつは凡庸な選択が創り出した日々のなかで、信じて裏切られる覚悟を身につけた。
信じて裏切られる覚悟。信じて裏切られる自由。
この自由をこそ、震えるほど求めていた。

この道を進みたい。たった一人であっても。

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