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パフォーマンスと儀式のこと

儀式が好きだ。
と言っても、葬式や結婚式に参列することに関心があるわけでは決してなく、
儀式という概念そのものに、とても関心がある。

だからなのか、大学院時代の修士論文では二重三重にも「儀式」的であると言っても過言ではないような
宗教の音楽儀式を模した儀式について、取り扱った。

信仰のない民族の儀式をauthenticな儀式たらしめているものは、一体何なのかを考えている。
参列者のほとんどがクリスチャンでなくともそれなりの感動が場に満ちる結婚式、
参列者のほとんどが仏教徒でなくてもそれなりに心が動く葬式。

舞台と同様、儀式には必ずリハーサルがある。
儀式、という語彙そのものがリハーサルの概念を内包している。そしてリハーサルがあるということは、常に本番は再現representationであるということだ。

真のfaith(そんなものが存在し得ると仮定して)の代わりを
演者のtension/nervousnessが果たしているのではないか、という仮説を立ててみる。

宗教的儀式におけるaudience観客は、本来は"神”だ。
わたしたち人間は、準観客とでも呼ぼうか、儀式の担い手と神が繋がる空間の媒介のようなものである。
たとえばギリシア悲劇においては、音楽を担うchorusが「理想的な観客」の役割を担い、
物語に対する"あるべき反応"を観客に示した。これも媒介的役割の一つといえるだろう。

その媒介の概念が曖昧になり、空間に溶け出していることが、宗教的ではない儀式の特徴であるとする。
そんなとき、本来準観客であるはずのわたしたち人間は、神を差し置いて観客の座についてしまうのだ。
そしてわたしたちの、儀式の進行に対する情動的リアクションを支えているのは、
"作法"や"慣習"といった、正当性を問われない口伝の文化なのである。

最低限のフレームが"牧師"によって示されー着席だとか起立だとか、そういった身体的行動の大枠ーるが、
それはあんぱんで喩えればパンの部分で、情動といった餡子の部分はというと、それは集う人々の曖昧な記憶の重奏的コピーなのだ。
そしてそのコピーに立脚した多数の"即興の感情”が、束となり儀式をつくるわけだが、
それがなんと総じてあるはずのない正当性Authenticityを帯びているわけである。

その"魔法”こそが、生身の人間が集って行うperformanceの真価であると常々思い、
一生涯のうちに幾度もその魔法による効果を享受しているわけだが、
それはそれとして、もう少し考えなければならない、と思う。
私の場合、きちんと考えることをおざなりにしていると、必ず表現そのものに皺寄せが来てしまう。

生身の人間によるパフォーマンスが行われる空間で鳴る音楽は、
音楽学で言ういわゆるhistorical authenticity歴史的正当性を離れ、
むしろaudienceの心象にしか存在しない"authenticity"に呼びかける。
そのフレームでは本物と偽物の区別がなく、情動が揺らぐか/揺らがぬかが唯一の判断基準となる。

その現象の舞台が、必ずしも信仰を伴わない"儀式"の場であるとき、
本物かどうかを見極める基準そのものが、慣習、曖昧な記憶といったアーカイブし得ない液体のなかに立脚することになる。

不思議で、面白い。そこになぜ、正当性が伴うのか。
誰も偽物だと断じないような、情動が生成されるのか。
これは"記録"に権威を譲渡することに対する真っ向からの"挑戦"となるかもしれない。

音楽あるいは表現が"生じた"(と確認される)瞬間の情報をアーカイブして閉じ込め神格化し、
固定化し得ない現実の音をその結晶と照らし合わせて「正当性」を判断するといった、
歴史の中で幾度も批判され立ち消えながらも、未だ根深く生き残っている作法に対する、また新しい挑戦だ。

すべてのパフォーマンスは基本的に再現/再演である。

originalの捉え方に種類はあろうが、originalはどこにあるのか。
観客である我々が、originalを覗くことは永遠に叶わないのかもしれない。
いくら鮮明な記録があろうとも、本当はoriginalなど存在し得ないのかもしれない。

それでも構わない。否、本当に、それでも構わないのだろうか?答えが出るのはまだ先になりそうだ。

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