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カフカはピラティスをしていたか/dance tight/踊れない身体

踊れない身体を何十年も、持て余している。

悲哀と諦念と嫉妬が詰まった、血を抜くことすら許されない腐りかけの身体が残念で、すぐにでも手放したいと日々感じている。
だから、というわけではないが強烈に身体性そのもの、あるいは身体という表象の可能性に惹かれてperformance theoryを専門に選択した。(と、今となっては思う)

動、の肉体/身体。
静、の肉体/身体。

いずれも苦海から出でて、彼岸へ向かう命を宿している。


今は休止してしまったが、かつて、毎月pilatesのワークショップを主催していた期間がある。尊敬するパフォーマーでもありわたしの良き理解者でもある女性を、講師に招いていた。

pilatesとは不思議なもので、以前はヨガと似たようなものだと思い込んでいたのだが、実は全く逆とも言えるアプローチがそこにある。
ヨガは精神優位という人間の武器を最大限活用し、心身を総動員し、究極の快楽の獲得をゴールに据える(少なくとも原典においては)。

一方で、pilatesは元々は戦争で負傷した兵士のリハビリなのだった。
なので本来pilatesは"静か"であると言える。ケア的/反セラピー的である、と言ってもいいかもしれない。精神優位どころか、むしろ"心身"を分化させた近代的自我の発明以前の"身体"のありように人を戻すことで癒そう/癒えようする。
動物としての肉体"本来"のアライアンスをイデアとして、できるだけ静かに、自然にあるはずの身体の"平穏"を取り戻さんとする。

そこでは呼吸が最大ボリュームの活動であり、呼吸すらも時として、身体のauthenticityの前に抑制されるべきものとしてある。

私たちは身体優位を"知らない"。
現代社会に暮らしていると、精神優位がデフォルトにならざるを得ない。

pilatesの最中、マットの上で私たちは瞬間、虫になる。
"うまくいっているとき"、そんなイメージが浮かぶ。近代的自我からの解放が成功すると、動物を通り越して人は虫に還るのだ。

動、の肉体/身体。
静、の肉体/身体。

とある作家の絵に触発されて、
踊りの曲を書いた。
踊っている人、を描いたわけではないと思われるが、そこには動があり同時に静があり、力強さと安らぎがあり、苦しく美しい。まるで呼気を制限されているかのような胸の苦しさをおぼえる。(pilatesでは胸式ラテラル呼吸とよぶ)

この絵を目にしたとき、
まるでわたしの想像上の"踊る身体"のキャプチャかのように思われた。

一筆書きのようなメロディを書き、
一本道を歩くような歌をつけた。
後ろは振り返らなくてもよい、なぜだかその瞬間はそう思えた。

dance tight

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