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天職への道①/16歳で人生に絶望、そして遺書を書いた【前編】

天職に出会い、天職をもって生きていくことが、人生において、”やりがい” や ”生きがい” になっていると私は実感している。

それは、『幸福』に近づく道であるとも信じている 。だからといって、誰しもが直ぐに天職に出会えるわけでもない…


「食うためには、働かなければならいんだよ」
という言葉を子供の頃、両親から何度も聞かされた。
この言葉は、成長するにつれて自分の中でどんどん違和感として大きく膨らんでいった。

世界的なパンミックとなった昨今、特に思うのである。
多くの人々がコロナ禍で職を失うニュースを耳にするたびに、どうして人間だけがお金を得る仕事をしなければ生きていけないのだろうか…


「働いて収入を得ないと生きていけないのは人間だけだ」
他の動物は、働かなくても生きている。


いつしか人間社会では、生きていくにはお金が必要であり、継続的に手に入れるために多くの人間は働いている。しかしながら望まない職に就いてしまったり、望まない会社に就職してしまったり、配属先の人間関係がうまくいかなかったり…

多くの人にとって、仕事が大きなストレスの要因となっている。
幸いにも私は天職に出会うことができたが、天職に出会ったからといって、ストレスがまったくなくなるわけではない。


天職を求める人は、天職を探す前に
「どう生きたいのか」
「どんな人生にしたいのか」
自分で決めることが必要だと思う。

そうすれば、天職は見つけやすくなるような気がする。
こうした信念が生まれたのは、生まれた家庭にあったと思う。

どれだけ、生まれた環境を憎み、嘆いただろうか…


地元の名門高に合格

最近は、そういえば、ほとんど口にしなくなっている。
若い頃は、飲み会などでこの頃の話をすると涼風さんからは、ぜんぜん想像できない…と言われる。


晴れわたる青空を見上げながら、あの頃を回想するともう30年以上も昔の話になるんだな…と思う。

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そしてあの時、 
死ななくて良かった…


毎年、東大や京大に合格者を輩出している県内の名門進学高校に合格したにもかかわらず、入学後綴り始めた手記に私は遺書を書いた。

16歳の夏の終わり。。。


賭け事が大好きな父は、あちこちに借金をしながら…

競馬、競輪、競艇、オートレース、パチンコと賭け事をよくする人だった。子供の頃、何度もこうした場所に連れていかれた。小学生の時には、競馬新聞で分析しながら馬券を父に貰ったお金で何度も買ったことがある。

そして時々当たった
当たるとやはり嬉しかった


今でも記憶に残っているシーンがある。
まるでドラマのようだが、当時父にお金を貸したと思われる大人が、
借金返済の催促に我が家に何度も訪ねてきていた。

そんな時、父は小声で私にこうささやく…
「お父さんは出かけていて、家にはいませんと言え」
今でもその時の大人の名前を 
私は覚えている 


最近母から聞いた話だが…
それを聞いて正直、驚きと同時に呆れてしまった。

私が10歳になる頃まで、
父は定職についていたことが一度もなかったのである。
就職しては、すぐ辞める
これの繰り返しであったようだ。


この頃小学校で、授業中に親の職業を聞かれても…
悲しいことに私は答えることができなかった。
何度か聞いたこともあったが、いつのまにか辞めてしまっているようなことが多かったので正直分からなかったのである。
(私にも子供が3人いるが…全く理解できない)


しかも、自分で稼いだお金を賭け事に使ってしまい、家にお金を入れないことが多かったようで、物心ついた時から貧乏だった。


私が小学校高学年になった頃、ようやく父は仕事が続くようになっていた。そしてやっと家にお金を入れるようになったと母から聞いた。その続いた仕事は、新聞販売店の配達員でした。人間関係があまりなく、1人黙々と取り組めるのが向いていたのかもしれない…

しかし私が中学1年の夏の終わり…
父は肺炎から胸膜炎という結核を罹ってしまい、入院してしまう。
退院後は、自宅で療養生活することになり、1年以上父は療養ということで働かなかった。

働けない夫と3人の子供を養うために母は、日中近所の向上で働きながら、
夜の仕事を掛け持ちしながら、暮らしを支えてくれた。
そんな母の僅かな稼ぎでさえ…
財布から抜き取り、賭け事に使ってしまう父だった。母の勤め先にまで、母の給料を前借りに来たこともあったと聞いたことがある。

(どれだけ遊びたい人間だったのだろうか…)

(どうしてこういう男が、人の親になってしまったのだろうか)

結核に罹ってしまった父は、毎日療養のため家で1日中テレビを見ていた。
家での父の小言は以前より増し、夕食のとき酒を飲みだすと…
鬼のような形相で小言が始まるのである。

(働かない人間が、なぜ酒を飲んでいたのだろうか…)

未だに理解できない・・・・


我が家の食卓は、
「いただきます」
「ごちそうさまでした」
だけを口にして、無言で急いで食事をいただくことが常であった。


進学意欲の喪失   

「俺の前で勉強するな 気楽にテレビが見れないだろう!」
「どんなに勉強したって、大学に行く金なんてお前にびた一文も出さないからな!」
と父は、私にによく言った。

私が高校生になってから、弟や妹も中学生になり、だんだん学費もかかるようになってきたからなのだろうか、父の暴言は以前よりまして激しくなっていた。


しかも、我が家は4畳半と6畳の二部屋しかないウサギ小屋のような狭い借家。そのひとつの4畳半の部屋が、子どもたち3人の勉強部屋であったが、テレビがある居間でもあり、父はそこで朝から晩までずっとテレビを見ていた。


高校に入って、私は柔道部に入部した。
(単純に強くなりたかったからである)

父親を避けるために、近所のコンビニでアルバイトを始めた。部活とバイトをしている時間だけが楽しかったが、肝心の勉強の成績はどんどん落ちる一方、さすがに進学校である。予習していかないと、どんどん授業が分からなくなっていき、徐々に授業もつまらなくなっていった。

そしてビリになってしまった試験もあった。
もともと勉強好きであったにもかかわらず、学習意欲はどんどん低下する一方で、大学に行く夢もいつしか諦めていた。

生きることへの拒絶

ほぼ毎版、夕飯時に日本酒を飲むと父の小言が始まり、その矛先は母か私であった。いつしか父の身長を越した私は、柔道部に入部したこともあって腕力に自信がついていた。

ある日、小言に耐えかねた私は、父と激しい口論となり、かっとなって父を突き飛ばしてしまった。小柄な父は、背中から後ろに吹っ飛んだ。

「親に手を挙げるお前なんか少年院に入れてやる!」
 と父は叫ぶ。

私はそれ以上、手を父に挙げることはできず、手は震え、その震えは止まらなかった。収まらない怒りの矛先を部屋中の家具にぶつけていった。

家具を殴り、家具に穴を開け、家中の家具を倒した。
怒りに狂う私を母が必死に止め、泣き叫ぶ。

今度は父が包丁を持ち出し、
「そんなに俺が憎いなら殺せ!」
と包丁を畳に突き刺す。

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勉強どころではない。

当時、息子が両親をバットで殴り殺した事件があった。
いつ殺されるか…
逆に殺してしまうか…
そんな毎日が続いていた。

ノストラダムスの大予言

その頃、同世代の自殺を報じるニュースが、何度も耳に飛び込んできていた。

また、何度もテレビで目にしたことのある女性アイドルが、ビルから飛び降り自殺という衝撃的なニュースも飛び込んできたこともあった。

「なんで皆な死んじゃうんだよ」
「俺だってこんなに苦しいのに…」 
「死ぬな!」
「死なないで…」

そう心で叫びながら、度々涙した。


一方で最近は、全く目にも耳にもしなくなったが、ノストラダムスの大予言が頭から離れなかった。

「1999年人類終末説」

「恐怖の大王が空から…」


31歳までしか生きれないのか…
当時米ソの冷戦の真っ只中でもあったので、核戦争が起きて地球が滅ぶのではないかと悲観してもいた。

大学受験どころか、
生きていく意味すらどんどん見えなくなっていた 。

勉強しても…
大学はいけない

耐えて生きても
人生30年で終わり…

何のために耐えて生きるのか…

いつ交通事故で死ぬかもしれない

殺されるかもしれない…


我が人生には
”怒”と”哀”しかない。


そして、書き綴っていた手記に…
遺書を書いたのである。
死に方は…火山の噴火口に飛び込もうと心に決めた。

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骨まで消そうと…

16歳で人生に絶望、そして遺書を書いた【後編】

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