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天職への道②/16歳で人生に絶望、そして遺書を書いた【後編】

私と父の確執が激しくなってきた頃、 母は日中自転車で5分のところにある工場に勤務し、工場での勤務を終えて帰宅すると休む間もなく夕飯の支度を済ませ、夜は近所の割烹料理店で給仕のアルバイトを23時まで働いて家族5人を養ってくれた。

時々…夜の仕事の帰りに
母が買ってきてくれたお土産の餃子を二人で食べる時間は、
つかの間の幸せの時でした。

灯された生きる希望

高校2年になり進路相談の際、家庭の事情から進学を諦めていることを担任に告げると、担任は「新聞奨学生」という制度を使えば、大学や専門学校に行けることを教えてくれたことで、ようやく未来に微かな光が灯された。

「この制度を利用すれば、大学に行ける!」
「これで、この家から出られる」

しかし…
父は、この「新聞奨学生」制度を利用して大学に進学することに猛反対。高校を卒業して家を出るまで、 何度も何度もこの言葉を父から浴びせられた。

「新聞配達はものすごく大変なんだ。
雨だって、台風だって休めないんだ!!!
俺が一番知っている」

「お前は途中で投げ出して奨学金の返済を、
親に押し付けるのが目にみえている」

「親に迷惑かけるだけだから、やめろ! 迷惑だ! 」



高校1年の冬休み
私が年賀状配達のアルバイトをすると言い出した際も、
父は同じことを言って反対してきた。

「バイトの高校生が、配達が辛くて年賀状を捨ててしまうニュースがあっただろう!お前も同じだ。親に迷惑かけることになるんだからやめておけ」

そんな父の言葉とは、裏腹に
私は1日も休むことなく最後の日まで出勤し、
人生初めてのアルバイト代を手にすることができた。
その冬休みは、ずっと好天にも恵まれ
年賀状配達のバイトを楽しむことができた♪

療養中の父の小言が、毎日私を苦しめていたが…
新聞奨学生を知ることができ、家を出れる希望が救いだった。

そんな日々。。。
父が寝るのを見計らっていつも帰宅していたが、帰宅して父の小言が家の外まで聞こえる時は、家に入らず本屋に向かい、閉店まで時間をつぶすことが多かった。


ようやく帰宅してからも、毎晩机に向かっていたものの全く成績は伸びなかったので、受験科目を絞るために私立文系志望のクラスに3年から入ったが、受験勉強に励んでみたものの、3大学受験し全敗という結果であった。


落ちたことは、少なからずショックでもあったが…
(やっぱりな…)
という感覚の方が強く
大学に不合格した落胆より、
家を出れる喜びが数倍、いや数十倍嬉しかったのである。


高校3年の夏以降、英単語を覚える単語カードを使って、
表に「日付」、裏に「家を出るまでの日数」を記入した日めくりカレンダーを独自に作成して…

卒業の日を指折り待ち望むことが自分にとっての救いだった。
1つでは足りず、2つ目も作成した。


16歳で遺書を書いたが、
母がいなかったら…

 「あの世」か「塀の中」だったかもしれない。

この母を残して死ねなかった…
これが一番大きな理由である。

次々と降りかかる試練

高校を卒業後、予定通り新聞社の奨学制度を利用して、 都内の新聞販売店に勤務しながら、浪人するために予備校に通う道を自ら選択した。

 奨学金で予備校の入学金と1年間の授業料はまかなわれ、寮のアパートも用意され、しかも入居費用は1円もかからず、当時は大変感謝な思いでいっぱいだった。

もう30年以上前の話だが、家賃18,000円で風呂なしの4畳半一間のアパートであったが、初めて自分だけの部屋を手にした喜びはすこぶる大きかった。

同期の仲間が3人もいたのは、心強かった。
彼らは、北海道、島根、福岡から上京してきていた。

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朝3時に起きて朝刊を配達し、昼は予備校に行き15時までに帰宅し、夕刊を配達するという毎日。日曜と祝日だけ夕刊がなかったのでのんびりできた。日曜の朝の仕事後の朝風呂は、18歳の若者にも至福の時間。

朝が早いので22時には就寝する毎日であったが…
月末月初は新聞代の集金業務が夜や土日に加わってくるので、
睡眠時間が短くなることもあった。

しかし、1年間1日も病欠することなく、新聞販売店の業務を無事成し遂げることができ、予備校の奨学金の返済義務をクリアすることはできたのだが…

本来の目的である大学受験の方は、
ランクを落として2大学受験したにもかかわらず、またしても全敗。

せっかく奨学金を借りてまで入った予備校は、夏までしか行かなかった。。授業中に居眠りをしていて、先生に怒られたのである。

朝3時に起きて新聞配達をしてから、予備校に来ている生徒であるのに…
ただただ悔しさと怒りが収まらず、翌日から予備校の授業に出るのを辞めてしまった。。。(こどもだったな~)

さらに、新聞販売店の隣にはゲームセンターがあった。夕刊の配達が終わると夕食までの間、同期の4人でそのゲームセンターに入りびたりだった毎日。

 初めて自己管理の難しさを痛感した1年。
今度の敵は、自分の中の『甘さ』だった。
私も含めて販売店内の予備校生全員がその年の受験は失敗。

予備校にも行かなくなた浪人生の私は、
受験に失敗し相談する人もいなく、
来年からどうすべきかと一人悩みながら…
ただ、実家に戻るという選択肢は100%なかった。

大学受験には失敗したが、新聞販売店での勤務を
1年間やりきれたことは、少なからず自信にはなったし、
意識していたわけでもないが、父を越えれたという
確信めいたものを持つことができた。

後で聞いた話だが…
意外にも母は息子が東京で新聞奨学生をしていることに不憫に思っていたわけではなかったのだ。母の姉である伯母が勝手に不憫に思っていた…ようだ。

受験に失敗し岐路に立たされ…
足を止めていた私の知らないところで、
人生が勝手に動き出していたのである。

都会のDEEPな闇

3月下旬
急遽北区から新宿区に引っ越すことになり、母方の従姉の旦那さんと従兄がワゴン車で迎えに来て、JR山手線の新大久保駅近くの24時間営業の喫茶店を経営している従妹夫婦にお世話になることになった。

その従姉は10代後半の頃、私の実家で一緒にしばらく暮らしていたこともあったので姉のような人だったこともあって、お世話になることに決心ができた。また 社長夫人の弟である従兄もマネージャーをしていることも心強かったし、大学に行く際は、社長から学費を借りれる話にもなっていた。


喫茶店の仕事は、ウェイター、カウンター、キッチンと3つに分かれていた。ウェイターから始まって、カウンター、キッチンとすべてこなし、コーヒーを入れるだけではなく、フルーツパフェやサンドイッチ、ピラフ、パスタも作れるようになった。

従業員の半分は日本人だったが、
中国人、韓国人、台湾人、マレーシア人と国際色豊かで、
彼ら彼女らは、日本語学校に通う学生であった。

初めて接する外国人達とのコミュニケーションは、楽しく、様々な好奇心を刺激してくれた。

また、この街は日本最大の歓楽街「歌舞伎町」に隣接するエリアでもあるので、従業員だけでなくお客様も様々な人間がいた。

新大久保は、2002年の日韓W杯や2003年の冬ソナブームで一変して、現在は「韓流の聖地」と呼ばれ、人気の観光地になっているが…

私が19歳だった1980年代後半のこの街は、
昼と夜は全く異なる顔で、日が昇るとサラリーマンやOLが、モーニングやランチ、お茶を利用するどこにでもある喫茶店だが…
日が暮れると街の様相は一変し、DEEPな闇に包まれる街に変わるのであった。

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流行語にもなった「ジャパゆきさん」と呼ばれる外国人娼婦が、
道々にたくさん姿を現していた。新宿の職安通りと大久保通りの間のエリアには、当時多くのラブホテルが立ち並んでいた。

この二つの通りの狭い道々の電柱ごとに、外国人娼婦が立ち、
道行く男たちに声をかけていた。
「お兄さん、遊んでいかない…」

私が務める喫茶店には、路上に立つ東洋系の外国人娼婦とは、別の金髪の娼婦達が夜になると10名前後やって来て、店内はなかば彼女たちの待機所と化していた。

店のピンクの公衆電話に、日本語の流暢な外国人男性マネージャーから電話が入ると、私は顔見知りになっていた娼婦達に電話を取り次ぐことも日常だった。


彼女たちの多くは、遠く南米コロンビアから出稼ぎに来ていた。
旦那さんや子供の写真を見せてくれる娼婦もいた。
彼女たちは、水ではなくビールを飲んで陽気で、
時々チップをくれることもあった。


夜の店内は、
娼婦
日本のヤクザ、
台湾マフィア、
日雇い労働者

こうしたDEEPな都会の街の景色は、
19歳の青年には様々な刺激を与えてくれた。

そんな街での生活も夏頃には、仕事もすべてをこなせるようになって、DEEPな夜の新宿の街にも慣れていった。

一方、寮では5歳上のバイトの先輩との相部屋で、寮の部屋の隣には2歳上の先輩も住んでいた。彼らにはとてもかわいがっていただき、夏頃になるとほぼ毎週末、先輩と一緒に夜の歌舞伎町に繰り出し、朝までディスコで踊った。(受験生なのに…)

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2浪目の受験を5月に決意したにもかかわらず、その決意も長くは続かなかった。受験失敗後にローンで購入したビデオデッキとCDミニコンポを寮に持ち込んだのが失敗。。。

先輩達は、一緒にビデオを見たり、レンタルCDのダビングに来たり、ゲームに使われたりもして、寮は先輩たちとの溜まり場と化していき、新聞奨学生時代以上に勉強はできなかった。

元々勉強することは好きだったが、次第に受験勉強には嫌気がさしてきてもいた。


高校生として受験した時なりたい職業は、「公認会計士」だったので経営学部や商学部を受験。1浪目は「作家」になりたいと思い始め文学部を受験。

2浪目になると、もはや
「何を学びたいのか」
「何になりたいのか」
もう分からなくなっていた。


社長である従姉の夫はとても厳しい人で、堅気になった元ヤクザの人でしたが、サウナによく一緒に連れて行ってくださり、これからの事業の展望を熱く語って10代の私にも多大な期待もかけてくれた。

我が父には全く見いだせなかった父親像を感じさせてくれる人だった。
だが社長のファミリーということもあって、誰かが休んだりすると真っ先にヘルプに駆り出され、早番、遅番、深夜番と通しで22時間連続で仕事をしたこともあった。

大学に行きたい思いは、どんどん遠のいていっている感じだった。

新たな希望の到来と挫折

8月のある日、街を歩いている時に1枚のポスターを目にして、国際青年協力隊の存在を知った。青空の下の若者の笑顔は輝いていた。

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資料を取り寄せてみると、訓練期間と派遣期間中に派遣先での生活費以外にも国内手当が毎月支給されることに魅力を感じた。それは、2年間青年協力隊に行っている間に100万貯まると単純に思った。

アルバイトで外国人との交流もあったせいか、田舎から東京へ出てきて2年目にもかかわらず、今度は世界に飛び出すことに希望で輝き出したが、国際青年協力隊の説明会に早速参加したものの、19歳の私には時期早々であった。

先輩方のヘルプのようなスタイルで、協力隊員としてついて行けると考えていたが…一人で行って、何らかの分野で支援や教育をしなければならなかった。

19歳の私には、途上国へ行って支援できるほどの「知識」も「経験」も、当然のことながら何一つなかったのである。海外に行く夢は、一瞬にして消えてしまったのである。

しかし、国際青年協力隊に参加してきた先輩方の話は、とても魅力的だったし、先輩方の顔は輝いて見え、彼らに憧れた。

一時は、新宿での将来の事業に希望を感じていた時期もあったが、青年協力隊の話を聞いてしまってからは、すでに事業の話には希望を感じなくなっていた。


「自分は、一体何を学んで協力隊に行くか」
それで頭がいっぱいになった。

当時の給料は、アルバイト紙を見てしまうと、かなり安い事も知ってしまった。もちろん貯金もできていなかった。

「このままここにいても何も変わらない」
悩んで悩んで、親にも伝えず、お世話になっていた従妹夫婦にも話さず、置き手紙を店のポストに投函し、家出同然のように寮から飛び出した。

今になってみると国際青年協力隊との出会いが、7年後に「天職」に通じる通過点だったように思える。

つづく⇒「夢を追いかけるフリーター」

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