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天職への道③/迷走するフリーター【全編】
魔都新宿を飛び出した私は知人のお世話で、
今でいうシェアハウスに住むことにした。
大志を抱いた19歳の若者は、フリーターとして新たな一歩を踏み出した。
私がフリーターを始めた年は1988年。
余談だが…
今では定着している「フリーター」という言葉は、当時まだなかったと思う。
「フリーアルバイター」という言葉が聞かれ始めたばかりで、 「フリーター」という言葉が広辞苑に記載されたのが1991年である。
現在の求人媒体はネットが主流となっているが、当時は紙媒体しかなかった。現在のタウンワークなどの紙媒体は、駅などに設置されていて無料で手に入るが、当時のアルバイト情報誌は本屋で100円で販売されていた。
販売されていたのが、リクルートの「フロムエー」と学生援護会の「日刊アルバイトニュース(現:an)」だったように思う。 他にもあったかもしれないが、私の記憶には残っていない。
アルバイト情報誌なのに眺めているとけっこう楽しく、
「東京にはこんなにもアルバイトがあるのか…」と何度か感心したもともある。
なんだか遊園地のアトラクションを体験するのと同じようなワクワク感を感じ、そして働いてみたくなるアルバイトもたくさんあった。
デニーズへようこそ!
受験を諦めてから、東京で初めてしたアルバイトは、全国展開している大きなファミリーレストラン「デニーズ」で、たしか時給は850円だったと記憶している。
一気に時給が200円も上がったのは、当時すごく嬉しかった。
しかも個人経営の会社から大きな会社で仕事ができるようになったことに、自分が成長しているような気にさえあなってもいた。
そしてアルバイトをして、仕事ができるようになっていく「達成感」が、より自分に自信を深めてくれるのを実感し、大人への階段を一段一段踏みしめてい るようでもあった。
本屋に行くのが好きだった私は、時々本屋に足を運んだ。自分の知らない世界を教えてくれる刺激に満ち溢れていたからだと思う。
子供の頃から『知』の欲求が強かったので、ほとんど勉強は苦にならなかったことは幸いでした。 国語辞書を開いて言葉の意味を調べることや、和英辞典を読むのも好きな少年だった。
夏休みに、叔母の家で午前中から本を読みはじめて、気が付いたら夕方になっていたこともあった 笑
本屋に行くと時々アルバイト情報誌を手にして、パラパラと覗いてしまうと時々「このバイトやってみたい」という衝動に駆られるてしまうことがあった。時給が高いアルバイトも魅力的だったが、私の場合職種で選ぶことが多かったと思う。
こうして次々と働いては辞め、働いては辞めるということを繰り返していったが、仕事が辛くて辞めたことはなかった。
知らないことを知ったり、体験したりすることに渇望していたのかもしれない。なぜなら子供時代をふりかえってみると、生活していくことで精一杯だった家庭だったので、挑戦するような体験に恵まれなかった。
デニーズを辞めた後のバイトは…
市場リサーチ
寮の賄い
築地市場
交通警備
引っ越し
置き薬の営業
スーパーの検品
短期の期間限定バイトもそれぞれ得るものもあるにはあったのだが、
仕事を覚えてしまうとマンネリ化を感じ始めてしまうと、
”自分の成長が止まってしまう”ように感じられてしまい、
さらには”やりがい”が見えない仕事には、
仕事への意欲が減退してしまう心の癖のようなものがあった。
そうすると新たな渇望が、ふつふつと芽生え始めてしまうのであった。
「一流のマナーを身につけませんか!」
そこは、都心であることを忘れてしまいそうなほど豊かな緑に包まれた日本庭園と古き良きに日本の伝統がたたずむ素敵な結婚式場でした。
時給1350円も魅力的だったが、求人誌に記載されたキャッチコピー
”一流のマナーを身に着けませんか!”が心にとても響いた。
けして当時、マナーを意識してたわけでもなく求めていたわけでもないのにもかかわらず、無意識に動かされたような気がする。
様々なマナーや接客の知識を得ることができ、今後のサービスをする上での基準となり原点となっているように思える。そしてこの職業の体験が、後に天職に活かされることにもなるのである。
多くの人が笑顔にあふれ、時に涙し感動的な時間に何度も遭遇することができた。結婚式という人生において最高のハッピーな瞬間にかかわることができ、粗相することなくサービスを提供できるようになってくると、あたかも自分が一流に近づいているかのようでやりがいとなっていった。
結婚式以外にも、平日には立食パーティなども開かれることもあったので、芸能人や有名なスポーツ選手を見かけることも時々あり、当時はとても刺激的であった。
夏の間は結婚式が行われないので、リゾートホテルの期間限定バイトに行ってみた。モーニングの仕事を終え、昼は海に入り、夕食の仕事が終わると温泉に入り1日の疲れを癒した。誰も知らない、見知らぬ土地でも生きていけることにも成長を感じたりもした。
30代前半に繋の仕事として短期間ホテルの配膳で復帰したことがある。その時は、高級ホテルやできたばかりの六本木ヒルズの最上階会員制の「六本木ヒルズクラブ」でもサービスを提供した。高級感のある空間の中でのサービスは、緊張感もあったが心を豊かにしてくれる
多くの人が笑顔にあふれ、時に涙し感動的な時間でもあった。結婚式という人生において最高のハッピーな瞬間にかかわることができ、粗相することなくサービスを提供できるようになってくると、あたかも自分が一流に近づいているかのようでやりがいとなった。
結婚式以外にも立食パーティなども開かれることもあったので、芸能人や有名なスポーツ選手を見かけることも時々あり当時はとても刺激的だった。
夏の間は結婚式が行われないので、リゾートホテルの期間限定バイトにも行ったりした。昼は海に入り、夕食の仕事が終わると温泉に入ったりすることができた。見知らぬ土地で生きていけることにも成長を感じたりもした。
一度配膳の仕事は辞めるが、30代前半に繋の仕事としてホテルの配膳で復帰する。その時は、高級ホテルやできたばかりの六本木ヒルズの最上階「六本木ヒルズクラブ」でもサービスを提供した。高級感のある空間の中でのサービスは、少なからず緊張感もあったが心を豊かにしてくれる感じでもあった。
手に着いた職は、その後も幾度となく私を助けてくれた。
職場で倒れる
20代にも拘わらず、当時の私は、それほどあれこれ遊びたい欲求もあまりなく働くことが好きだった。
もちろん、お金が貯まるのも嬉しかったのだが、けしてお金のために働くというわけでもなく、単純に部屋でゴロゴロしているくらいなら、”仕事をしていたほうが増し”という感覚。
幸いにも職場における人間関係で悩むこともあまりなく、比較的楽しんで仕事ができていることがほとんどであった。
けして借金があった訳でもないのだが、寝る時間を惜しんで、働いてみた時があった。それは24歳の時…同時に3つのアルバイトを掛け持ちした。
1つ目は、早朝6時から午後3時までのビジネスホテルの配膳。
2つ目は夕方から22時までファミレスのキッチン。
3つ目は、コンビの深夜のバイト。
この3つのバイトを1日に2つ回しながら働いた。
この時は、睡眠時間3~4時間ぐらいだった。
時間を有意義に使っているという感覚だった 笑
このサイクルでバイトに明け暮れ…
3ヶ月目に、私は職場で倒れた。
昼休憩の際、突然目眩が起き
(ふ わ ~ と感じたら)
床にぶっ倒れた。
人生で倒れたのは、この時だけである。
怪我をしなかったのは幸いでした。
この時、2つのことを悟った。
あたり前のことであるが、その時まで気づかなかった。
時給の仕事では、収入の上限が見えていることに
気づいたのである。
「時給✕勤務時間」
時給の限界値もあるし、1日に働ける勤務時間も限られている。
いいところ30万円ぐらいが限界だなと…
1日は24時間しかない
この事実は変えることができない。。。
そして倒れたことで、人間の体力の限界も身にしみた。
健康体でなければ働くことはできなくなるし、
病気になればもとも後もない。
今も思うと若かった…
もっと早く気づいていたら…
夢を追いかけるフリーター【後編】
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