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天職への道④/迷走するフリーター【後編】

掛け持ちしていた3つのバイトをコンビニの深夜バイトだけに絞り、
なんとなく正社員向けの求人紙を手に取り、眺め始めていた。
バイトの限界を身にしみていた私は、正社員にようやく目が向き始めたのである。

その時、25歳であった。

大学に行って新卒で入社し3年目に入っている時期 、社会人としての経験や視野も広がって自身も持ち始めている頃だと思う。
同世代の人間たちと比べたら、かなり遅れをとってしまっていた。

月収100万円の仕事

バイトで30万円前後を稼ぐことができていた私は、正社員でも月収20万円台の仕事が多いことに驚いたし、月収20万円台の仕事には全く興味がわいてこなかった。

自ずと月収30万円以上の仕事に目が向いてしまっていた。そして 30万円以上稼げる仕事は、ほとんどが営業職であった。

ただ、バイト時代にも営業の経験が少ないながらもあったので、
職種としては向いていない気もしたし、凄く稼ぎたかったわけでもないが、
特にやりたい仕事があったわけでもないので、”どうせやるなら稼げる仕事をするか!”という超軽い気持ちで探した 。

どんな会社なのかは、まったく調べもしなかったし、求人誌に書いてある情報だけで判断していた。

求人誌を眺めていると、
継続して求人を掲載している会社が、けっこうあることにも気がつき、「月収100万円以上可能」を謳っている訪問販売の会社にいつも目に止まった。
”本当に稼げるのか…?”
と思いながらもいつも気になり始めていた。


当時の私は、愚かにも急成長している会社で、積極的に採用を進めている会社と勘違いしていたのである。 笑


眺めながらあることに気がついた 。
車の免許が必要であることに…


そして営業職の会社に就職するために、私は自動車教習所に通い始め、
3ヶ月で免許証を無事手にすることができた。

私は、ずっと気になっていた月収100万円を謳っている会社に応募し、
採用されたのである。

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その会社はブラック企業だった

採用された会社は、新宿にある高層ビルの23階に営業所を構え、他にも関西や九州にも営業所がある訪販系の会社で、販売する商品は、定価20万円程の外国製のキッチン用の電化製品「ディスポーザー」であった。


同期が6人いたが、1週間の研修で商品の知識や設置の仕方、営業トークをみっちりと教え込まれた。


研修を終えると翌週から、営業所に配属となり先輩方と営業車に同乗し、主に埼玉や神奈川の新築マンションを目指して営業に向かった。そしてなんと営業初日に、私は販売の契約を取得することに成功し、3日目にも販売することができた。全国の営業所から祝福のFAXが届き、その週は、鼻高々で意気揚々だった。

しかし翌週からは、販売に苦戦しはじめ、結果初月は僅か3台の実績にとどまってしまった。やはり営業はそんなに甘くなく、営業の厳しさを知ることとなり、同期のメンバーも入社して、ひと月も経たないうちに、次々と4人が挨拶もなくいつのまにか会社を去っていた。

販売できない者は、会社にいづらい雰囲気が少なからずあったので仕方がないと思いつつ、“俺は生き残ってやる”と心に誓っていた。


東京の営業所は、同じフロアーに3つの営業所があり、40人前後の社員が在籍していた。営業所長やリーダー達の中には、1年間毎日販売する猛者、1ヶ月毎日2台販売を3ヶ月連続でする猛者がいて、100万円稼げるといのは嘘ではなかった。

パワハラと罰金

さらなる飛躍を決意して2ヶ月目に臨んだが、営業チームがシャッフルされ別のリーダーのチームになり、あることがきっかけで、このリーダーのからのパワハラが始まったのである。


そのきっかけは、私の下手すぎる車の運転にあった。
なにせ私は免許を取得したばかりの運転初心者で、新宿の会社のビルの地下駐車場から、恥ずかしながら当時は公道に車を出すだけでも怖いレベルだった。

おそらく下手すぎる運転に、日々イライラを募らせていたのだろう。運転の恐怖だけでなく、運転中に声を荒げられた叱責が、毎日後部座席から飛んできた。

ある日、私が運転する営業車は住宅街の袋小路に入り込んでしまい、50メートル以上の距離をバックで抜け出すしかない状況となってしまった。

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ハンドルを握る私は、恐る恐る営業車をバックさせていると

しびれを切らしたリーダーから、
「おせーよ!もっと早くバックしろっ!!」と怒鳴り声が飛んできて…
私はアクセルを踏み込んだ

(数秒後) ガツーン グシャ

営業車の後部が、電柱に激突…


幸い怪我人もなく、電柱も倒れることなく、
車の後部が凹んでしまっただけで済んだのは不幸中の幸いだったのだが、
後で先輩社員から教えられて知った。

この件でリーダーは、
車の修理代を弁償するはめになってしまったことと、新人にハンドルを握らせたことでかなり怒られたとのことであった。


この日を境に、このリーダーからの口撃やパワハラが、さらにエスカレートしていったのである。運転中に後部座席から脱いだ革靴で頭を殴られることや車内で後部座席から蹴りを脇腹に入れられたことも度々あった。

私も柔道の有段者であったが、運転の下手さは事実であったので運転スキルを向上させるしかないと思い、じっと耐えた。

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月初に立てた販売目標が月末になって、未達の可能性が高まると休日出勤も余なくされた。

下旬に入ると朝礼で
「テメーが吐いた目標に届かないのに、呑気に休んでいられるのか!」
と関西弁の所長の怒鳴り声が飛んでくるのである。

やむなく休日出勤して、せめての誠意の形だけ見せるのが常であった。
しかし実際は出勤して表向き営業に出るのだが、ほとんど営業もせずファミレスにいたり、パチンコやゲームセンターで時間をつぶしていた 笑

未達を恐れて少ない目標数値を掲げると今度は、
「やる気がないのか!」と一喝されるので、
しぶしぶ背伸びをした目標を掲げるのであるが、目標が未達で終わってしまうと罰金というシステムが全員に課せられた。

翌月初めに未達の罰金が、リーダーも含めて未達者全員から集められるのであるが、未達1台5,000円だったので、2か月目の私は10,000円の罰金となった。

罰金として回収されたお金は、皆で飲み会に使って、皆に還元するお金に強制的にされていたが一度も参加したことはない。

しかし当時は知らなかったが、このルールが違法である。10年後私は、人事の職についてそのことを知った。

3か月目に入って別のリーダーに代わったので、前月のリーダーからのパワハラはなくなり、ストレスの一つが解消されたのだが、数字は伸び悩んでいた。

3か月目のある日、他の営業所が違法営業で摘発を受けたことが、ニュースで報じられた。

設置不可のマンションであるにもかかわらず、住民を欺き何件もディスポ―ザーを販売し設置してしまっていたことが明るみに出たのである。

その情報は、部長や所長から初期の水洗トイレの問題と同じで、いずれ解決される課題であると聞かされていたが、”摘発”と聞いて内心穏やかではいられなくなってもいた。


3か月目の月末に、翌月のリーダーがまた2か月目のパワハラリーダーであることを知り、退職することを決断し寮の荷物をまとめた。


翌日出社せず、朝一で会社の借り上げ寮のアパートから荷物をレンタカーの軽トラに詰め込み夜逃げのように逃げ出したのである。

友人宅で落ち着いた昼過ぎに、会社に電話をかけると部長が電話に出た。
「荷物がなかったとの報告を聞いたから、退職の手続き進めているから」「期待していたんだがね…残念だよ」

私の弁明を挟む余地もなく、引き止めてくれることもななかった。
こうして私の初めての正社員は、僅か3ヶ月で幕を閉じてしまったのである。


つづく⇒「人生の目的【解決編】」

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