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Twitterのいいねを巡るメタゲーム


1.いいねといいね欄

いいねは"いいねを押す"という行為の記録です。そして、行為は意思/感情によってなされます。
よって、いいねが意思/感情の表れならば、いいね欄はその集まり、すなわち"心の表れ"だと言えます。
この点で、いいね欄がプライバシーだという主張は正当なものです。

2.いいね欄における他者との合一

いいね欄の特異性は、他の意思/感情を共有する方式と比較することで明らかになります。主な意思/感情を共有する方式として、会話や私小説が挙げられます。
各方式の中で、他者がどれほど自己に近づくかに着目し、分析します。

(声で)会話するとき、声の位置が違うことにより他者性が生じます。声は人から発せられるため、位置が違うならば、違う人=他者となるのです。
また、二人の声の位置が近づき、それが互いに了承されるならば、その二人は赤の他人同士よりも親密な関係と言えるでしょう。
このように、会話における自己と他者の距離は、声の位置の距離に表れます。
しかし、その距離は決してゼロにはなり得ません。

一方、私小説では、作者と読者が全く同じ位置にあります。具体的に言えば、文章があって(目で)文章を見るという構図が、作者と読者で共通しています。
しかし、私小説において作者は以前に存在し、読者は以後に存在するという点で、時間軸でのズレがあります。
この"時間の壁"により、どれほど感情移入できたとしても、私小説の作者は決定的な他者性を持ちます。
もちろん、"時間の壁"を超えて読者に迫るものもあり、そのようなものは名作として扱われるのですが。

これらを踏まえてTwitterについて分析します。
まず、ツイートがあって(目で)ツイートを見るという構図は、全てのユーザーで同じだと言えます。
また、Twitterにはリアルタイム性を感じさせる仕組みがあります。
具体的には、返信やいいねされたときの通知です。
この通知により、ユーザーが同じ時間にいると感じられます。そして、ツイートによって、ユーザーが今いることが確認されます。

この"ユーザー同士を同期する"仕組みにより、ツイッターは時間の壁を乗り越え、リアルタイムの場所となりました。
オーバーな表現と感じるかもしれませんが、いいね欄では、その"心の表れ"という性質と、ツイッターの同位性/同期性により、他者との合一が可能だったのです。

3.いいねを巡るメタゲームと自他の融合

他者のいいね欄を見るユーザーは当然の帰結として、いいね欄を見られることを意識するでしょう。
「フォローする前に良くないツイートのいいねを外す」「相手への共感を示すために同じツイートをいいねする」といったツイートにそれが表れています。

このようなユーザーは、いいね欄を見る/見られることを前提としています。このあり方はメタ的であり、利益と損失の回避を目的にしている点でゲームのプレイヤーとも言えます。
こうしていいねを巡るメタゲームが始まります。

ゲームやメタゲームは他者を想定して行われますが、Twitterにおける他者とは誰なのでしょうか。
Twitterで想定される他者とは不特定多数ですこれは実質的に全ての他者であり、世界とも言い換えられます。
いいね欄を巡るメタゲームの本質は他者への迎合です。また、ツイッターにおける他者とは世界であり、いいね欄は"心の表れ"です。つまり、このメタゲームでは"自己が世界に対して開かれる"のです。

全人類の融合は多くのフィクションの題材になっていますが、共通項として、全人類が"自己を世界(全ての他者)に対して開く"ことが挙げられます。いいね欄を見る/見られることを前提とするコミュニティでは、ある種の自我の融合が起こっていたのではないでしょうか。

Twitterではいいね欄非表示によって、このメタゲームは終わりました。
しかし、"自己が世界に対して開かれる"というのは、ウェブ上のコミュニティであれば、多かれ少なかれ持つ傾向だと思います。これがユーザーにとって良いものか、悪いものかはまだ分かりません。

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