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パウル・クレーをまとめ! 天使や音楽など、年代別に作品を紹介

パウル・クレーの作品は日本人にとっても、けっこう馴染みがある。すごくおしゃれで可愛らしくて、なんか仕事で疲れたときに見ると泣ける。

クレーのファブリックパネルとか家に飾っている素敵な方もいらっしゃるだろう。きっと北欧好きだろう。で、家ではマイアヒラサワあたりをかけていて、朝はムーミン柄のオープンサンドメーカーでトーストを焼き、日中はきなりのロングワンピースを着て、しゃんしゃんと歩き、古い喫茶店に入って石田千やゴーゴリあたりを読むはずだ。

クレーが好きな方ってそんなイメージがある。あってもなくてもいい物を愛せる才能があって、工夫することで何もない毎日を幸せに変えていくような、季節の移ろいなんかに敏感に過ごしているような、素敵さを持っているイメージできっと余裕に満ち溢れた方だろう。

今回はそんな日本でも馴染み深いパウル・クレーという画家について書きます。

パウル・クレーの生涯! 誕生からウェイ系大学生になるまで

パウル・クレーは1879年生まれ。スイス出身。誕生した当時の画壇は、印象派が登場したころだった。つまりアカデミズムが崩壊し、いろんなタイプの作品が出てくる、アート界がいっちばん面白い時期に誕生した。

画家としてのイメージが強いクレーだが、実はバリバリの音楽一家だ。父親は音楽の先生、母親は声楽家という家庭でクレーは幼いころからがっつりバイオリンに親しむ。そして小学生にしてプロのオーケストラでバイオリンを弾いていたそうだ。まさに神童だったわけである。

しかし多感なクレー少年は音楽以外の芸術にも興味があった。その1つが絵画で、幼いころから絵も描いていたそうだ。当時描いていたのはスイスの風景画。ハイジのあの世界である。あの美しい山々がクレー少年の心に働きかけたのだろう。

ちなみに余談だが、筆者も小学生のころにスイスに行ったことがある。うねった山道を車で走っている最中に酔って、青々とした森に盛大にゲロをぶちまけた思い出しかない。どうだ。ここまで余談だとは思わなかっただろう。

時を戻そう。クレーが高校生になるころには、自作の詩を書いたりもしていたが、結局のところ絵を自分の生きる道に決める。プロのオーケストラを蹴ってまで絵を描くことを決心したのだ。これはすごい。寺田心くんが急に「ぼく魚好きです!」とか言い出して漁師になるようなものだ。止めろよ大人!

なぜ音楽を辞めたか、という理由が「反抗期だった」というのがすごい。そのほかに「現代音楽に魅力を感じなかった」とも本人は言っているが、これも反抗期ならではの感情だろう。多感すぎてプロ級のバイオリンの腕を捨てたのだ。もう一度言う。止めろよ大人!

パウル・クレー(17歳)「私の部屋」1896年

クレーは高卒後、19歳にしてドイツ・ミュンヘンの美術アカデミーに入学。カンディンスキーの師匠でもあるフランツ・フォン・シュトゥックのもとで真剣に絵を学びはじめた……かに思われた。しかしクレーは結局入学して3年後、22歳で退学する。「学校ってみんな同じことやっててつまんねえ」という理由だった。ダリと同じこと言ってやがる。

じゃあ在籍中はちゃんと絵を学んでいたのか、と思いきや、そうではない。これが現代の大学生と同じで、夜な夜なパブに繰り出しては女の子を引っ掛けて遊び呆けていた。ちなみに21歳で子どもができている(生後数週間で逝去)。渋谷のクラブでウェイウェイ言ってる大学生だったのだ。絵筆じゃなくてZIMA持ってた。

結婚・出産と青騎士への参加まで

クレーは退学後、イタリア・ナポリで半年間にわたって建築を学ぶ。「いや、絵描けよ」と思うかもしれないが、このころの建築の純粋な表現に感動したクレーは、のちの作品でもこの半年間を生かしている。この場合の「純粋」とは「無駄のない」という言葉に近い意味だと捉えると、クレーがやりたいことがわかりやすくなる。

その後、1902年に実家に帰ってきたクレーはたまーに美術教室を開いたりしてお金を稼ぎつつ、白黒の銅版画を描きまくった。その量は3年間で約70作品ともいわれる。やっと本気を出したのか。建築が彼をそうさせたのかもしれない。

この頃のクレーの絵はおもしろい。シュルレアリスムに通ずるなんか奇妙な作品が多いのが特徴だ。

パウル・クレー(26歳)「父の肖像」1905年

見て。実の父の顔がもう上履きだよねこれ。少し奇妙な、純粋な意味でのグロテスク表現がこのころのクレーの特徴だ。後期に比べると、白黒の画風なんて想像つかないだろう。それほどまでにクレーは色彩への感覚が鋭かったわけだ。

さて、クレーは1906年、27歳で結婚する。相手はミュンヘンの音楽会で知り合ったリリーというピアニストだった。翌年には息子が誕生するも、ご存知の通りクレーは仕事をしていない。なのでリリーがピアノ教室で稼いで、クレーはちゃんと主夫をやっていた。子育て日記とかつけてたのが、インスタママみたいでかわいい。

ちなみにこのころクレーはのんべんだらりと子育てパパやってたわけではなく、イラストレーターの仕事に応募したり、ちゃんと仕事を探していた。クレーが他の多くの画家と違うのは、商業的な作品を作る気持ちがあった、ということだ。ダリしかり、美大を出てる画家は商業主義に対して前向きに臨む傾向がある。パパ、がんばってた。

パウル・クレー(29歳)「ミュンヘンの室内」1908年

パウル・クレー(31歳)「少女と瓶」1910年

しかしなかなか仕事は見つからず、子どもが5歳になるころにようやく初の個展を開催する。1911年のことだった。この年に大きな出会いがある。

ミュンヘンで幻想・奇想の画家として有名なアルフレッド・クービンからイラストの仕事が来たのだ。これを機に、だんだんとグレーの元にグラフィックデザインの仕事が来るようになる。

その後、クレーはミュンヘンの芸術家組合のマネージャーとなり、あれよあれよと当時売れっ子だったカンディンスキーに会う。

先述した通り、カンディンスキーもクレーもフランツ・フォン・シュトゥック先生の教え子だ。「え!フランツ先生に習ってたん?」「あの先生、語尾上がるよね(笑)! はい教科書開いてぇ〜↑」「分かる(笑) 似てるわ(笑)」みたいな愛想笑いたっぷりのぎこちない会話をしたに違いない。

パウル・クレー(33歳)「パリスケッチ」1912年

青騎士とはたった3年、されど3年の表現活動

カンディンスキーは当時「青騎士」という芸術運動をしていた。青騎士という名前は年に一回刊行されるアート誌の名前であり、あんまり深い意味はない。そこまで共通の作風があるわけでもない。

ただカンディンスキーを筆頭にさまざまな画家が、それぞれの技法で表現を極めたさまは「アカデミズムからの脱却」「表現活動の多様化」という意味でも重要なものだった。たった3年間の活動だったが、ドイツ表現主義の先頭に立った運動として、西洋美術史のなかでも大事な活動となっている。

チュニジアの旅を経てバウハウスでの黄金期に

パウル・クレーは青騎士解散後、元メンバーたちと1914年にチュニジアに旅行に行く。そこでチュニジアの太陽を見て大いに感動するわけだ。天啓に打たれたのである。

色彩は私を永遠に捉えた
色彩は私を所有している。もはや私はそれを追いかける必要はない、私にとっては永遠に所有していることをわかっている。色彩と私はすでにひとつだ。私は画家だ。

などの名言が当時の日記に記されている。思えばクレーは20代前半の白黒銅版画のころから、異様なくらい色彩に魅せられてきた画家だった。白と黒に悲しみを覚え、色彩はいわば元気の源と思ってる節があったのだ。

ここからクレーの画風はガラッと変わる。色彩豊かな表現に切り替わるわけだ。チュニジアの太陽ってそんなにすごいのか。インドに行ってる場合じゃないぞ。自分探しはチュニジアだ。

パウル・クレー(35歳)「In the Style of Kairouan」1914年

パウル・クレー(35歳)「チェニス近郊のヨーロッパ人植民地、サンジェルマンの庭」1914年

パウル・クレー(35歳)「チュニジアのスケッチ」1914年

パウル・クレー(35歳)「堅固な場所」1914年

別人が描いたかのような絵だ。もはや静物的モチーフは姿を消し、抽象化されたパターンと、淡く明るい色彩が主役になった。日本でよく知られているのは、この辺りの作品からだ。

そしてこのパターンに「音楽的要素」を見出す人も多かった。解説するために、もう一度「In the Style of Kairouan」を見てみよう。

この四角や丸の図形の配置が、まるで五線譜の上のおたまじゃくしのようだったのである。今でいうと音楽制作ソフト・DAWの画面を見ていただくとかなり近いことが分かるだろう。

もちろん、クレーがもともとバイオリニストだったことは大きく影響しているに違いない。いわばクレーの描く四角は音楽でいうピアノのリフであり、丸はスネアのリズムのようなものだった。

その後、第一次世界大戦を経て、クレーの黄金期が訪れる。ドイツのデザイン学校・バウハウスの先生になったのだ。

バウハウスとは現代のデザインの礎を作ったデザイン学校

バウハウスは現在の商業デザインの基礎を作ったような学校だ。いわゆる現代のプロダクトによく見られる、シンプルなパターンなどで構成される「モダンデザイン」はバウハウスで生まれた。

しかも当時はイギリスで産業革命が起こり、大量生産が可能になった時代だ。バウハウスは当時のプロダクトデザインを一手に引き受けてめきめき成長していく。

クレーは当時、ステンドガラスや製本などのデザインの先生をしていたそうだ。しかも、とても優秀で意見が対立することに喜びを感じ、何かが生まれる期待に胸を膨らませていた。「もっとみんなでデザインを良くしよう!」という、確実に生徒から人気が出るタイプの先生だったのだ。

ナチスからの迫害から晩年の「天使」まで

クレーはバウハウスで教鞭をとりつつ、もちろん作品を作っていた。1925年にはパリのシュルレアリストたちがクレーの噂を聞きつけ、第一回シュルレアリスト展に招待する。

この時期のクレーの絵画は抽象化されたなかにも、モチーフの存在を感じられる表現で、さらに不可思議さを増している。デザインとアートの中間にある曖昧な作風に進化した。「パルナッソス山へ」や「金色の魚」などの代表作はこの時期に生まれた。まさしく黄金期を迎えたのだ。

パウル・クレー(43歳)「Senecio」1922年

パウル・クレー(43歳)「赤い風船」1922年

パウル・クレー(46歳)「金色の魚」1925年

パウル・クレー(47歳)「Around fish」1926年

パウル・クレー(53歳)「パルナッソス山へ」1932年

パウル・クレー(54歳)「fire at fullmoon」1933年

クレーは1931年までバウハウスの先生をしたあと、大学で教鞭をとった。金銭的にも落ち着き、ドイツで作品をとにかく量産していた時期だ。まさに順風満帆。しかしそんな幸福な時間は一気に破壊されることになる。ヒトラーが現れたのだ。

ヒトラーといえばユダヤ人迫害で悪名高いちょび髭独裁者だが、当時はナチスドイツの威厳を保つため(単に画家に対するジェラシーのため)に前衛的表現をしていた画家を迫害し、作品を「退廃芸術」と呼んで燃やしていた。

クレーも退廃芸術生産工場だとみなされ、しぶしぶ地元・スイスに家族で逃げることになる。クレーがドイツに残っていた1933年に製作した絵画はなんと500点。いかに創作に力を入れていたかが分かるだろう。のっている時期にヒトラーが現れたのだ。

しかも同年に皮膚硬化症を発症。手がうまく動かない、ご飯を食べられない、などの症状と闘うようになる。ここからの3年間は制作数も少ない。

しかし手がうまく動かなくても、クレーの創作意欲は消えておらず、1939年の創作点数は1253点。疾患のため以前のような緻密な絵画ではなくなったものの、大きめのブロックやモチーフを描くことで表現を極めていった。

パウル・クレー(59歳)「ドゥルカマウラ島」1938年

そして1939年から1940年にかけて熱心に描いていたのが「天使シリーズ」だ。皮膚硬化症で手が動かないなか、必死に描いた傑作シリーズである。このシンプルな線画を描くのにも苦労したことだろう。

パウル・クレー(60歳)「忘れっぽい天使」1939年

パウル・クレー(60歳)「泣いている天使」1939年

パウル・クレー(60歳)「鈴をつけた天使」1939年

パウル・クレーが晩年に天使シリーズを描いたのは、既に自分の死期を予感していたのかもしれない。この表現には青騎士時代の表現主義的な描き方が関わっており、非常にパワーを感じる作品になっている。このころのクレーの言葉にこんな一節がある。

左手は右手ほど巧みではない。だからしばしば右手より役立つのだ

動かない利き手ではなく、左手を用いて必死に描いていたクレーの姿。そして写実主義ではなく、表現主義を貫いてきたクレーだからこその到達点的な台詞に聞こえる。かっこいい、というかたくましい。

そしてクレーは晩年に「死と炎」を発表。ドイツ語で「death」を意味する「Tod」でドクロを描いた。

最後の最後までダブルイメージを使った非常にスマートな作品を残しているあたり、パウル・クレーの精神的な若さ、ユーモアを感じる。

クレーの「天使」の背景にある気迫

ここ最近、友人とクレーについて話していて思ったのは「パウル・クレーといえば天使」というイメージは、日本において完全に固定されていることだ。

天使のイメージが固定された背景としては、比較的日本のアパレルブランドや絵本なんかとコラボすることが多いからだろう。

例えば宇津木えり氏がデザイナーを務めるブランド・FRAPBOISなんかは数年前から毎シーズン、クレーの天使モチーフで服を作っている。

また谷川俊太郎がクレーの天使を語った書籍を出したことでも国内ファンが増えたに違いない。

「パウル・クレーの絵ってかわいいよね」という声は多い。もちろん確かに天使はバリバリ可愛くて、3Dプリンタで出力して飾りたくなるくらいだ。

しかしこうクレーの人生を辿ると、天使の筆致が違って見えてこないだろうか。

体をうまく動かせない、ご飯も食べられないなか、最後の最後に表現した画家としての気概や気迫が満ちている。パウル・クレーという珍しいほど作風をコロコロ変えた画家の最後期がこんなにもシンプルな線画だと、誰が想像しただろう。「サーティワン、いろいろ味あるけど結局バニラ論」とは違う。

とにかく、1つのことに固執せず、自分の芸術を極めた画家として、私はパウルクレーが好きだ。音楽も楽しいし、詩作もわくわくする、でも絵画がいちばん好き〜。しかも絵画をジャンル分けするなんてつまんない。好きなものを好きなように描くぜ。くらいの、身軽さで生きていきたいものである。

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