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くるりの曲は2つくらいしか知らないけれど、これだけ知っていれば僕らの未来は大丈夫かもしれない。

ひとつ書いておかなければならないことがあった。

前回の記事のなかで、「かかとをちゃんと大地につけて食器を洗うと、落ち着いた心地になる」と書いた。

わたしにとっての落ち着いた心地とは、決して平穏でなにも変わったことは起こらない状態ではない。むしろ、「未知の出来事が起こる(であろう)未来に向けて安心してわくわくできる状態」が、私にとっての落ち着いた心地なのだ。

「安心な僕らは旅に出ようぜ」
くるりはそう歌う。
旅は安心して帰ってくる場所があるから旅なのであって、つま先立った姿勢で生きるのは、常になにかに追われて立ち止まることができない逃避行のように心落ち着かないものだ。

旅といえばフーテンの寅さんなのだが、あの寅さんでさえ帰る場所がある。いや、帰ってきてはまた出ていく場所でもあるのだけど。いや、この際、物理的な帰る場所があるかどうかはたいした問題ではない。(なぜ寅さんを出したのか・・)

もう一回、書く。
安心な心地で未来に迎える姿勢、それがかかとをはじめ、足の親指、小指の三点で足裏がちゃんと体を支えてくれている状態なのである。可能性にあふれ、なにが起ころうとなんか大丈夫な気がする。もっといえば、なんでもできそうな気さえするのだ。

ところで、引っ越しとか変化が大好きな人っているのかな。わたしはどちらかというと嫌い。どんなに散らかっていても、住みにくそうと言われても、慣れ親しんだところからみずから出ていくのは、相当のよっこらしょがいる。

でも、変化を楽しめるときはある。それは、未来の方向がなんか明るそうだな、と感じられるとき。わかりやすく言うと、ワクワクする、とかそういうとき。

かかとから背骨をシグナルは駆け上がる。脳髄まで届く頃には、すばらしいアイディアを思いついたりする。

そういうときの自分を神がかっていると思うのは、誰にでもあって不遜なことではないと思う。

さらに、その状態が神がかっているのか、それともそれが本来の自分なのか、それは時間をかけて検証するに値する問題だ。


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