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能力至上主義に、物申す

こんにちは(^^)

学校の成績、わたしは小学校を転校してからは良かったんです。転校前の、周りが中学受験塾に通うようなとこにはまったく馴染めず、緑豊か&いろんな動物がいる学校で、初めての冬に雪が降り校庭でかまくら作ったの楽しくて、ほかにものびのび学べていたような気がします。


こんにち、われわれが成功についてとる見解は、かつてピューリタンが救済についてとったものと同じだ(※前の章より、「選ばれた者はその立場を自力で獲得したのであり、したがってそれに値する」)。つまり、成功は幸運や恩寵の問題ではなく、自分自身の努力と頑張りによって獲得される何かである。これが能力主義的倫理の核心だ。この倫理が称えるのは、自由(自らの運命を努力によって支配する能力)と、自力で獲得したものに対する自らのふさわしさだ。私が収入や富、権力や名声といった現世の資産の少なからぬ割合を自らの力で手にしたとすれば、私はそれらにふさわしいに違いない。成功は美徳のしるしなのだ。私の豊かさは私が当然受け取るべきものなのである。

こうした考え方は勢いを増しつつある。それは、人びとにこう考えるよう促す。私は自分の運命に責任を負っており、自力では制御できない力の犠牲者ではないのだ、と。だが、これには負の側面もある。自分自身を自立的・自足的な存在だと考えれば考えるほど、われわれは自分より恵まれない人びとの運命を気にかけなくなりがちだ。私の成功が私の手柄だとすれば、彼らの失敗は彼らの落ち度に違いない。こうした論理によって、能力主義は共感性をむしばむ。運命に対する個人の責任という概念が強くなりすぎると、他人の立場で考えることが難しくなってしまう。

過去40年にわたり、能力主義的な想定は、民主的社会において一般の人びとの生活に深く浸透してきた。不平等が極度に広がってきたにもかかわらず、公共文化において、われわれは自分の運命に責任があるし、自力で手にいれたものに値するという考え方が強まってきた。まるで、グローバリゼーションの勝者が、自分自身や他人をこう説得する必要があるかのようだ。つまり、頂点を占める人びとも底辺に甘んじる人びとも、自分の居るべき場所に立っているのだと。あるいはそうでないとしても、機会に対する不公平な障壁を取り除きさえすれば、誰もが自分の居るべき場所に到達するはずだと。

(略)

実のところ、能力主義エリートに対するポピュリストの嫌悪が、トランプの当選に、また、同年それに先立ってなされたイギリスのEU離脱という驚くべき票決に一役買ったという考えには、それなりの理由がある。選挙とは複雑な事象であり、有権者にそう投票させたものは何かを断定するのは難しい。だが、アメリカでトランプを、イギリスでブレグジットを、その他の国々でさまざまなポピュリスト政党を支持していた労働者階級の多くの人びとは、社会的地位の向上の約束よりも、国家の主権、アイデンティティ、威信の再主張に関心があるようだった。彼らは、能力主義エリート、専門家、知的職業階級を嫌悪していた。こうした人びとは、市場主導のグローバリゼーションを称賛し、その恩恵に浴し、労働者を外国との競争という試練にさらしたばかりか、同胞ではなくグローバル・エリートに親近感を抱いているように思えた。

既成秩序に対するポピュリストの不満のすべてが、能力主義的なおごりへの反感というわけではなかった。外国人嫌い、人種差別、多文化主義への敵意などが絡み合っている部分もあった。だが、ポピュリストの反発の少なくとも一部は、こんないら立ちによって引き起こされていた。すなわち、能力のヒエラルキーの上に仁王立ちした人びとが、自分たちほど功績を挙げていないと見なす人々を軽蔑して見下しているのだ、と。ポピュリストのこうした不満は根も葉もないものではない。能力主義エリートは数十年にわたり、懸命に働きルールに従って行動する人々は、その才能の許すかぎり出世できると呪文のように唱えてきた。彼らは次の点に気づかなかった。底辺から浮かび上がれなかったり、沈まないようにもがいている人びとにとって、出世のレトリックは将来を約束するどころか自分たちをあざ笑うものだったのだ。

トランプに一票を投じた人たちには、ヒラリー・クリントンの能力主義の呪文がそんなふうに聞こえたのかもしれない。彼らにとって、出世のレトリックは激励というより侮辱だった。これは、彼らが能力主義を拒否していたからではない。それどころか、彼らは能力主義を受け入れていた。だが、それはすでに働いている物事の仕組みを説明するものだと考えていた。

(略)

能力の専制を生み出すのは出世のレトリックだけではない。能力の専制の土台には一連の態度と環境があり、それらが一つにまとまって、能力主義を有害なものにしてしまった。第一に、不平等が蔓延し、社会的流動性が停滞する状況の下で、われわれは自分の運命に責任を負っており、自分の手にするものに値する存在だというメッセージを繰り返すことは、連帯をむしばみ、グローバリゼーションに取り残された人びとの自信を失わせる。第二に、大卒の学位は立派な仕事やまともな暮らしへの主要ルートだと強調することは、学歴偏重の偏見を生み出す。それは労働の尊厳を傷つけ、大学へ行かなかった人びとをおとしめる。第三に、社会的・政治的問題を最もうまく解決するのは、高度な教育を受けた価値中立的な専門家だと主張することは、テクノクラート的なうぬぼれである。それは民主主義を腐敗させ、一般市民の力を奪うことになる。

政治家が神聖な真理を飽き飽きするほど繰り返し語るとき、それはもはや真実ではないのではという疑いが生じるのはもっともなことだ。これは出世のレトリックについても言える。不平等が人のやる気を失わせるほど大きくなりつつあったときに、出世のレトリックがひどく鼻についたのは偶然ではない。最も裕福な1%の人びとが、人口の下位半分の合計を超える収入を得ているとき、所得の中央値が40年のあいだ停滞したままでいるとき、努力や勤勉によってずっと先まで行けるなどと言われても、空々しく聞こえるようになってくる。

こうした空々しさは二種類の不満を生む。一つは、社会システムがその能力主義的約束を実現できないとき、つまり、懸命に働き、ルールに従って行動している人びとが前進できないときに生じる失望。もう一つは、能力主義の約束はすでに果たされているのに、自分たちは大損したと人びとが思っているときに生じる落胆だ。後者のほうがより自信を失わせるのは、取り残された人びとにとって、彼らの失敗は彼らの責任ということになるからである。

マイケル・サンデル(Michael J. Sandel)

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(原題:The Tyranny of Merit ―What's Become of the Common Good ?、早川書房、2021年) 「第3章 出世のレトリック」より


ここでいう「能力」というのは大雑把にいえば学力・偏差値のことのようで、大学進学するというシステムへの順応、質問の意図を理解して的確に答える能力、そういうもののことだと思います。…「能力」には多種多様なものがあるはずなのに。プロ棋士、プロスポーツ選手、音楽家、芸術家、他人の心身のケア(それに必要な親しみやすさ)、喋るプロ、危機的状況での判断がものをいう職務、手先の器用さ、新鮮食材見分ける眼力、調整・交渉役… いろいろあるなかで、学業だけが飛び抜けて評価が高いんです。

正直なことを言うと、試験であまり苦労しなかった時期があったため、むかしはわたし自身思いあがっていた若造でした。でも、自分が病気してから考え方を変えざるをえなくなり、紆余曲折を経ていまに至ります。

本書には、「学歴偏重主義――容認されている最後の偏見」という章もあります。学校の成績が良かったこと、長時間椅子に座っていられること、書面で・文章で仕事を進めるのに抵抗がないこと、それらはさまざまな能力のほんの一部なのに、そういう人達しかいない場所で(そういう人達にとって都合良く)重大なことが決められていく(あるいは決めないままで放置する)のはバランスがものすごく悪いような気がします。

もうすぐ衆議院選挙がありそうですが、国会議員ってほんとうに国民の代表なのかな?と思うことがあります。18世紀フランス革命の頃は革新的な方法だったのでしょうし、その後、投票権を多くの人が持てるようになっていった過程は素晴らしいのでしょうけれど。わたしが投票する人が当選すること、ほとんどないし(「縁起が悪いから、投票してくれるな!」と思われちゃうかな…(;´Д`)…)。どこできいたのか忘れてしまいましたが、抽選・くじ引き方式でいろんな職業・立場の人が議論の場に参加できるというほうが、よほど国民の実態を反映できるのではないかな、それいいな!と思ったのでした。

学業に限らず、才能・能力次第で個人的成功や高収入ゲットできますよ、というのもどうでしょうか? その才能・能力はその人だけのものでしょうか? その人に大なり小なり関わっている人達、大袈裟に言えば、人類全体に与えられたもの!!と思っているのはおかしいでしょうか…??

That ability, that talent are only yours... aren't that ??☆

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