校則の是非、そして多様性の本質
こんにちは(*'▽')
暑い日が続きますが、水分補給、とどこおりなくされていますでしょうか? 接客&レジ員をしていた頃、交代要員が来ないとトイレにもなかなか行けない立ちっぱなしの仕事でしたが、周りに配慮してしゃがんで水分補給してたら上司に怒られました。でも、熱中症になるの嫌だったので、飲むこと自体はやめなかったのですけど。…ニュースで知った、マスクをしながら校庭で走って脱水&熱中症で亡くなった小学生のことが気の毒でなりません。
ブレイディ さっきの話に戻るんですけど、日本は今、ちょっと暗いな、若い子たちがすごく内向きになってるんじゃないか、と思う時があるんですけれども、そういう閉塞感(へいそくかん)を感じている若者たちに、今、何を伝えたいと思いますか?
鴻上 いや難しいですね、本当に難しい。さっきの、僕らが喋った教育に関係してくることじゃないですか。
僕は40年ぐらい演出家やってるから、つまり自分が若かった頃から40年間、だいたいハタチ前後の若者とずっと付き合ってきてるわけですよ。この40年間で彼ら、彼女らの口癖(くちぐせ)で何が一番増えたかっていうと、「そんなことしていいんですか?」という言葉。昔は、「嫌です」とか「どういう意味ですか」なんて言葉だったんだけど、今は「そんなことしていいんですか?」に替わった。
僕は今、若い奴らと「虚構の劇団」という劇団を一緒にやってるんです。入団試験に合格すると、その後、1年間研修生になるんだけど、最後に一人芝居を自分で作って発表するというのが最終試験なんです。客席数が100にも満たないような小さい劇場を借りて発表するんです。俳優志望でも、いろんな意味で芝居と出会うために、演じるだけじゃなくて音響や照明も経験してもらってるんです。
これは前回の話なんですが……オペルームという、客席の一番後ろにある音響と照明を操作するためのブースがあって、そこに窓があるんですが、サッシの窓だから左右どちらかを全部開けるとどっちかが閉まる。それで、音響と照明が並んでブースに詰めているわけですが、2人とも生声を聞きたいから自分側の窓を少しでも広く開けようとせめぎ合ってるわけですよ。昔の教室の2人用の机の、これ以上境界線を出るな、みたいな争いです(笑)。で、「なに揉(も)めてんだ、だったら、サッシを外せばいいじゃん」と言って外したら、2人が同時に「そんなことしていいんですか?」って、驚いた顔で言うんです。「別に壊してるわけじゃなくて、窓を外すだけだから。その方がお互いにとって良いんだから外していいじゃん」と返したら、2人してなんか信じられない光景を見たっていう顔してるんですよ。
また別の芝居の時――今度は釣り竿を芝居の小道具で使うんですけど、100均ショップで買ってきた釣り竿があってね、でも長すぎるから俳優は上手(うま)く扱えないわけ。「それなら切りゃいいじゃん」って切り始めたら、またその小道具の若いスタッフが「そんなことしていいんですか?」って驚くんですよ。「許されたこと」しかしちゃいけない、という思考が染みついてて、何が許されることなのか、というところからしか考えが始まらなくて、枠(わく)そのものというか、構造そのものを疑うということができないんだと思います。
これ、僕は、小学校、中学校、高校の「校則」の刷り込みが大きいと思ってるんです。
僕らが学校に行っていた時は、ふざけんな校則っていう――前髪が眉毛にかぶさっちゃいけない、耳が隠れちゃいけない、靴下はワンポイントまでとか、そんな校則に、馬鹿なこと言ってんじゃねーよ、という反発があった。それが今は、髪の長さも、リボンの色と幅も決まってるのは当たり前で、疑うことではない、というところで思考が止まっている。
ブレイディ いつからそんな風になったんでしょうね。いつ頃から、そういう言葉が増えてきたんでしょうか?
鴻上 分からないですね。今日、Twitterで内田樹(うちだたつる)さんが「大学がこんなことになってしまったのは、1960年代から70年代は過激派の学生を撲滅(ぼくめつ)するために、大学をちゃんとコントロールすることが目的だったんだけど、80年代に入ったら、過激派の学生なんて一部の大学以外ほとんどゼロといっていいぐらい、いなくなった。だけど、大学の『管理する』という言葉が自己目的化してしまって、とにかく管理する条項が増えていった」ということをつぶやいてて、これは結構、真実に近いと思うんですよ。
つまり昔は校則をちゃんとつくらないと学校が荒れるんだ、と考えられてたんだけど、今、(1980年前後がピークだった)校内暴力はほとんどない。不良同士がどこかで大喧嘩してます、なんて話もめったに聞かなくなったのに、校則を守らなきゃいけないという考えだけが目的化して走り続けている。
ブレイディ 走り続けているのを、止めることはできないんですかね。
鴻上 一部の教師と自覚的な保護者は止めようとしてますよ。止めようとしてるんですけどね……。
ブレイディ どこかで止めないとね。
鴻上 本当にそう思います。ただ、ちょっと前に、「鴻上さんのファンだったのですが、教師である私は、鴻上さんが学校の校則に文句ばかり言うと、自分が責められているような気持ちになるので、もうファンをやめます」とTwitterで呟かれたことがあるんです。申し訳ないなと思います。戦場の兵士を責めてもしょうがないわけで、やっぱり戦争そのものを生んだ上層部の責任を問わなきゃいけないわけですよね。
でもこうやってブレイディさんの、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』のような本がちゃんとたくさん売れていくことで、教育で大切なのは管理することではなく、自分の頭で考える力を伸ばすことなんだ、という当たり前の考え方が広がって、少しずつ変わっていけばいいなと思います。みんな仲良く、とばかり言ってる場合じゃないと思うんですよね。やっぱりみんな子供を持つと真剣になるじゃないですか。
ブレイディ そうなんですよ。
鴻上 「子供達が水筒を勝手に飲まないよう教育されている」という話をツイートしたら、拡散して700万人が読んだんです。普段だとそんな数字は出ないので、やっぱり親御さん方は子供の健康の問題だから、本気になったんだと思います。学校の運営とか生徒の管理だとか、そんなこと知ったこっちゃない。自分の息子が脱水症状になって倒れたら……本当にこれは譲れないことなんだと考えることが当たり前になったら、日本人も日本の教育に対して、踏ん張れるような気がしますけどね。
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ブレイディ 鴻上さんは、どんなお子さんだったんですか。
鴻上 僕は両親とも小学校の教師でした。たぶん、学校の先生の子供あるあるだと思うんですけど、学校の先生というのは、理想を語る。特に僕の両親はちょうど戦後の最初の世代で、「民主主義の新しい憲法のもとで、日本は生まれ変わるんです。民主国家、平和国家になるんです」という教育を受けてそのカリキュラムで先生になったので、熱く社会正義を語っていましたね。それがたぶん、今の僕の基礎を作ってるという感じはします。
例えば僕は、愛媛の10万人ほどの街で育ったのですが、朝の6時と夕方5時に地区の公民館から音楽が流れるわけです。夕方は別にいいんですけど朝6時にも流すことに父親が、「夜に働いて寝てる人もいるだろう。朝、大きい音を聞いたら間違いなく目を覚ますだろう。それは悪い意味でそれぞれ個人を尊重していない」と。つまり、一律にやるのはおかしいということを父親は言うんですよ。
子供心にそうだと思いましたね。地方都市でもタクシー会社もちゃんとありますからね、夜の勤務のタクシー運転手さんや、飲み屋で夜働いている人が朝6時に起こされるのは間違ってると思うし、それをみんなと一緒にしなきゃいけないと強制するのは絶対おかしいぞと思ったんです。ちなみに、いまだにその放送は続いてます。もう何十年もですね。
都会だと夕方の放送はあっても朝の放送は無くなってると思いますけど、ちょっと地方に行くと、「みんな一緒に」という慣習は、いくらでも残ってますよ。これはおかしいなと思う理不尽や不条理に、すごく敏感になる育てられ方をした子供でしたね。
ブレイディ それが今の鴻上さんにつながってるんですね。
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ブレイディ 無意味な校則、多いですよね。
鴻上 ほぼ全部、無意味です。アメリカでナイフを持ってきちゃいけないとかドラッグを持ち込んではいけない、という校則には意味があると思いますよ。露出がありすぎる下着姿を禁止する校則というのもきいたことありますけど(笑)。
日本だと、リボンの幅だの髪の長さだのを決めるのはまったく無意味。中学校の時、それをなんとかしようと闘ったけどダメで、高校入って、やっぱり変えたいなと思ってました。そう思った一番の理由は、要は学校の先生を尊敬したいし信頼関係を築きたいわけですよ。(略)
だから、いまだに無意味な校則の話に触れると、ちょっと我を忘れて熱くなります。分かりやすく大人げない態度をとってしまいます(笑)。
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鴻上 すごいですよ。もう何それって笑っちゃうような校則は山ほどあって、それが実は日本の不登校の原因になってるんだと、BBCがニュースにしている。昨日会った編集者に聞いたんですが、「娘が中学校で不登校なんですけど、それはいじめられてるわけではなくて、とにかくその学校の雰囲気が嫌で、アレをしちゃいけないコレをしちゃいけないと禁止事項ばかり言われて、もう息が詰まるから私は行きたくないのって言われて僕は納得してるんですよ」と。
だから、もう今までやってきたルールのままでは無理なんだということに気づいた人と、いやいやこれで、とりあえずやれてるから無理に変えなくていいんだって現状維持を望んでいる人のせめぎ合いが続いていると僕は思ってます。だから『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を読んでもらって、ほらほらやがて日本も間違いなくこの世界になるんだから、この多様性の試行錯誤を理解して対応できるようになりましょうよ、と言いたいんですよね。
道徳の授業がカリキュラムに入ってくるのは嫌だなと思ってたんですけど、小学校では移行措置を経て、2018年から完全実施されて、中学校では2019年から完全実施されたんです。日本の道徳の授業が、さっきの話のシチズンシップ教育のようなものを採り入れていたらいいんですけど、「他人に迷惑をかけないように」とか「他人を思いやる心」とか、「社会」ではなく、「世間」とのつきあい方を尊重する方向になっているので心配しているんです。
以前にアメリカの授業でとてもいいなと思ったのが、「tattle」と「telling」――つまり、「つげ口」と「言わなきゃいけない情報」の違いについて、ちゃんと授業に組み込んでいる。例えば友達が教科書に落書きをしているのを先生に言うのは tattle=つげ口だと。だからこれは無理に言う必要はないと学校が教える。でも友達がナイフを持って来てることを伝えるのは、つげ口ではなく telling=言わなきゃいけない情報で、先生に言うべきことなんだと。ものすごく具体的で、実行可能なルールだと思います。子供達は、「つげ口」したと周りに思われることをとても嫌がりますからね。でも、それは「大切な情報」で「つげ口」じゃないと明確なガイドラインを教えるわけです。
さっきの「シンパシー」と「エンパシー」の違いについての問いに通じますよね。平気でナイフを持って来たり、銃を隠して持って来る生徒もいるようなアメリカの状況に対応するために、絶対に必要なことと、そうでないことを分けましょうという指導ですよね。現実への対応能力を育てる教育って大切だなと思うんですよ。
ブレイディ 結局、多様性というのは対応能力の問題にすごく関係してますよね。先ほどの、意味のないルールにガチガチに縛られている企業は結局倒産して、よそには違うルールがあることに気づく企業が生き延びていける、という話はやっぱりそういうことなんですよ。
違うルールを持った人たち……結局、宗教対立とかもそういう問題じゃないですか。違うルールを持った人たちが一緒に生きていく。違うルールを信じた人たちも一緒に生きていく。自分の信じているルールだけが全てではない。そのなかで、じゃあこういうルールもあるんだねって、それこそ、その人たちの靴を履いてみて考えるなかで、まあ違うんだけど、でもここまでは譲れるかなとか交渉して一緒に折り合っていけるのは、それこそが多様性のありよう。無意味なルールをいつまでもせこせこ守って自分たちだけの世界に閉じこもってばかりいると、それは自由や正義の問題じゃなくて、生き残っていけないよっていう問題だということが、今、日本ですごく問われているような気がします。
ブレイディみかこ & 鴻上尚史
『何とかならない時代の幸福論』(朝日新聞出版、2021年)より ※ NHK Eテレ「SWITCHインタビュー達人達」2020.3.21放送&未放送、加筆修正した内容
「エンパシー(empathy)」という言葉、わたしも『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(ブレイディみかこ、新潮社、2019年)で詳しく知りました。「シンパシー(sympathy)」が、SNSの「いいね」ボタンみたいなもの、感情的に同情したり、同じような意見を持つ人に共鳴したりすること。対して「エンパシー(empathy)」は、「この人の立場だったら自分はどう感じるだろうって想像してみる能力」のことで、対象に制限はなく、自分と同じ意見を持ってない人でも同情できない人でも対象になり得るのだそう。エンパシーという能力を磨いて伸ばしていくことが、多様性には大事なんだと教えてもらいました。
いままでは、内輪意識・世間の目からはみ出さないようにしていればなんとか維持できたものが、社会が多様な人、多様な価値観を内包して成熟していかざるを得ない(そうしないと生き残れない)ほど変化してきている現状というのは、わたしも年々強く感じています。それを嫌だとは思わないんですが、いままでに慣れ過ぎている人は居心地の悪さに通ずるからあまり変化を良しとしませんよね…??
学校教育、甥&姪っ子もこれからお世話になっていくし、現実への対応能力を育てる教育というのぜひやってもらいたいなぁと思いますが、過労死ラインを超えた教員の方々の働き方を抜本的に変えないと、事務作業や会議・研修が立て込んでいて、生徒と関わる余裕がないのが現状のよう…。
規則についても、もう、富国強兵の頃からの軍隊式みたいなものはなくなっていいのではないかな。制服を決まり通り着られることより、TPOに合わせた服装を工夫できる方が社会で役に立ちますよね。禁止事項ばかりで息が詰まってしまうから学校に行きたくない、という不登校の理由があるというの初めて知りましたが頷けます。管理されるって、される側にとっては本当にしんどいですもん。
良い方向に変化していけますように、そのために身近からできることをしていきたいです。
Diversity and Inclusion, we can start with our ability of empathy ☆
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