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三島由紀夫の短編から

こんにちは(*'ω'*)

こんど読書カフェでとりあげられる課題本が三島由紀夫の短編集「真夏の死」なので、自分で選んで読むことはしないなぁと思う文庫を手にしています。そのうちの一編に心惹かれました。


杉男は葉子の伯父の息子である。すなわち従兄である。云いかえれば、彼は恋人と兄とを生まれながらに兼ねそなえることのできる位置にあった。

二人はいろんな点がよく似ていたので、本当の兄妹とまちがえられることがたびたびあった。相似というのものは一種甘美なものだ。ただ似ているというだけで、その相似たもののあいだには、無言の諒解(りょうかい)や、口に出さなくても通う思いや、静かな信頼が存在しているように思われる。なかんずく似ているのは澄んだ目である。その目は、濁った不純な水をかならず濾過(ろか)して、清浄な飲料水に変えてしまう濾過機のように、そこに影を落として来る現世の汚濁を浄化してやまない目であった。そればかりではない。この濾過機は外側へむかっても、たえず浄化された水を供給しているように思われた。この二人の目から流れ出た水が世界を霑(うる)おす日には、この世の汚濁はことごとく潔(きよ)められているにちがいない。

ある朝、杉男と葉子は混んだ電車の中で背中合せになっていた自分たちを見出した。登校の途上である。ふだんなら会う筈はないのであったが、杉男が別の親戚の家に泊まって、そこからまっすぐに登校したために、二人はそれと知らずにおなじ電車に乗った。秋であった。空気には菊の匂いが漂っていた。

杉男も葉子も、お互いの背中が感じている温か味を、何故かしら人間の肉の温か味のようには感じなかった。二人は自分の背中に日光が当っているのかしらんと思った。遠いところから来る一条の清浄な光線の温かみのように思われたのである。そこでお互いに相手の顔をのぞこうという気はなかった。しかし葉子は相手の背が黒サージの制服の広い背中であり、杉男は相手の背がセーラア服の柔らかな小さな背中であることを感じていた。そうしているうちに、二人は混んだ電車の乗客が押しあいへしあいする力と一緒に、おのおのの肩のあたりで或(あ)る溌溂(はつらつ)たる別の力が動いているような心地がした。翼ではあるまいかと二人は思った。隠され畳み込まれた翼が、じっと息をひそめている気配がある。というのは、時折強く触れあう背中に、敏感すぎる甚だしい羞恥(しゅうち)が感じられたからである。翼を隠しているのだとすれば、こうした羞(はじ)らいは理に叶っていた。今時そんな崇高な代物を隠し持っていることは、われわれをはにかませるに足る理由である。

二人はくすぐったそうな微笑をうかべた。翼が背中をくすぐるような気がしたのである。はじめて身を転じ、顔を見合わせた、葉ちゃんだったの、と杉男は目を丸くして叫んだ。ずいぶん久しぶりね、と葉子は言った。

(中略)

葉子の首は喪(うしな)われていた。首のない少女は地にひざまずいたまま、ふしぎな力に支えられて倒れなかった。ただ双の白い腕を、何度か翼のように激しく上下に羽搏(はば)たかせた。……

これをきいた杉男の悲嘆は甚(はなは)だしかった。彼は戦争が自分を殺してくれるのを待った。しかしみんなが生きているように、今も彼は生きている。(もう少し、つづく)

三島由紀夫

『真夏の死 自選短編集』(新潮文庫) 「翼 ―ゴーディエ風の物語―」より


サバイバーズ・ギルト (Survivor's guilt) という言葉が思い浮かびます。――戦争や災害、事故、事件、虐待などに遭いながら、奇跡的に生還を遂げた人が、周りの人々が亡くなったのに自分が助かったことに対して、しばしば感じる罪悪感のこと。「サバイバー」 (survivor) は「生き残り・生存者・遺族」を、「ギルト」(guilt) は「罪悪感」を意味する英語。(Wikipedia 参照)

1930年代生まれの男子、多感な10代が戦時中にあたった年代の人達は、国家の命運と個人の命運が離れがたく結びついていて、若いうちに自分は死ぬのだろうと自然に思っていたというんです。ちょっとわたしには想像が及びません…。

戦争でなくとも、災害やテロ現場で5メートルくらいしか違わない場所にいたにもかかわらず明暗(生死)を分けたなんていう状況で生き残ったときの心境というのも想像を絶します。「あなたが助かって良かったよ」って、安易に言えないような気がしてきます。

この短編に登場する杉男の背中に重くのしかかる翼に、自分が生き残ったことに対する納得のいかなさと、戦後の社会になんとなく溶け込めない違和感を読み取ってしまいます。またこれが、美しい言葉・文で表現されているので、生活感がないんです。それが一層、杉男の孤独の深さを感じさせるような気がします。短い作品なので、一読おすすめします。

高校に入って一年目の現代文の先生(あ、司馬遼太郎さん意識してるな!と思うような髪型でした)が、授業とは別に毎月課題本を提示されていました。若きウェルテルの悩み(ゲーテ)、春琴抄(谷崎潤一郎)。夏は、野火(大岡昇平)、黒い雨(井伏鱒二)。あとはなんだったか忘れていますが、なんでこんな暗いのばっか…(;´Д`)と思いつつ、なんだかよくわからないまま、読むだけは読んでいました。人生には、内面に沈殿した澱のようなものをためつすがめつ眺めるような場面が出てくるのかな、という予感を持たせてもらったといいますか。

平野啓一郎さんが、「文学は何の役に立つのか?」という問いに対して「今の世の中で正気を保つため」と答えていらっしゃいます(中央公論 2020年4月号)。「文学には読んでいる時の他者への共感と、読後に読者同士がより自由に、より寛大に共感し合う効果があるというのがその理由だ。他者への共感とは、すなわち立場の違いを超えてジレンマを乗り越える力だ。」

高校生の現代文から文学作品を削ることは、長い目で見たときに大きな損失になるのかもわかりません。

Let's read literary works... because of being in possession of our senses ☆




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