見出し画像

濁り、ひずみに託されたもの

こんにちは(*'▽')

「関ジャム  完全燃SHOW」の、変ジャム森羅万SHOWver.(テレビ朝日)で先日、音のひずみの話が聞けました。攻撃的、かっこよさを求めて、いろいろな主張、叫びがこもっている、そういった表現のようです♪  


日本の犬はワンワンと吠えるが、英語圏の犬はバウワウと吠える。

どちらが本当の音に近いのだろう。もちろん、犬種と犬の機嫌にもよるだろうが、ここでは、バウワウの「バ」の響きに注目したい。

このところ、右肩に付くものが気になっている。たとえば――この、たとえばの「ば」もそうだが、「は」の右肩に打たれた点。これは濁点と呼ばれ、要するに、この点が右肩に打たれた文字は発音する際に音が濁る。

というか、これは楽譜の記号と同じで、ここは「濁らせよ」という指示になっている。言葉を変えると、「あえてノイズを入れなさい」と指示しているわけで、人が言葉をかたちづくる過程で、こうしたノイズを排除しなかったのは、じつに思慮深い選択だったと感じ入る。

というのは、どうやら、物事の本質は、こうした「濁り」や「ノイズ」の方にあるのではないかと思われるからだ。

たとえば、「たとえば」と声にするとき、濁りを排してしまうと、「たとえは」になる。これではなんだか力が抜けて、たとえばの後につづく言葉も力を失ってしまう。「ば」と音が濁るから、その濁った音の響きに耳が反応して、「たとえば」を投げかけられた相手も、「それで?」となる。ちなみに、「それで」の「で」も濁っており、こうして並べてみると、人は何かしら強調したいとき、注意を促したいとき、気持ちの水位があがったり感極まったときに、思わずノイズが生じるようである。

ロックと呼ばれている音楽の推移を俯瞰(ふかん)するとよく分かる。楽器は、より主張の激しい音楽を奏(かな)でるために電気的に音を増幅し、その結果、音がひずみ、歪んで濁った音が、奏者の「叫び」の代わりとなった。あるいは微妙で複雑な矛盾や混沌や衝動といったものを、音を歪ませたり濁らせることで表現した。

しかし、こうしたロックな表現は、言葉がつくられた時点ですでに濁音に託されていた。つまり、濁点とはロックなのである。人の胸のうちにある歪みである。歪みの「歪」という字は、じつに分かりやすく「不正」と書くが、こうして濁音を発している以上、人はこの「正しくない」ものを胸の内に秘め、ガギグゲゴバビブベボとノイズを発しつづける。

そして、それこそ、じつに正しい表現ではなかろうか。濁音のない「きれいな音」で奏でられたものは、きれいではあっても、何かもうひとつ本当のことが足りない。嘘がある。その証拠に「きれいなこと」に濁点をひとつ打っただけで、「きれいごと」になる。

濁点は、こうして世の「きれいごと」を暴いてゆく。ワンワンと可愛らしく吠えていた犬も、人のきれいごとを察したときは、牙をむいてバウワウと吠える。

バウワウと吠えられて、人ははじめて萎縮する。いや、萎縮したのは錯覚で、実際は本来のサイズに戻っただけだ。

本来のサイズより大きく見せようとして「きれいごと」を並べ、人は自分が大きくなったと思い込んでいる。大きくなった人の目には、物事の機微が見えない。機微は常に小さなもので、「きび」と言葉を濁らせてノイズを発しないと、大きな大ざっぱな人には伝わらない。

「そうそう、いるよね、そういう人」と他人事のように頷く人たちのほとんども、かなり大きくて大ざっぱな人になっている。

大きな人の耳には、機微の叫びが聞こえない。轟音ノイズによるバウワウの叫びが、ようやく機微と呼ばれる小さな雑音となり、それとて、ほとんど気づかない。

「やれやれ、困った大きな奴らだ」と英語圏の神様は世に犬を放ち、GODをさかさまにしたDOGと名付けて、大きな人たちにバウワウと吠えるように命じた。

そして、漢字圏の神様は、きれいごとの大きな人たちを戒めるため、彼らが失った機微と濁点を思い出させるために、その吠える動物の名を「大」の字の右肩に点を打って、「犬」としたためた。

吉田篤弘

『うかんむりのこども』(新潮社、2013年)より 「ロック」


流麗な朗読を聞いていると、美しいけれど、ちょっと引っ掛かりがなさ過ぎて内容があまり入ってこないことがありました。朴訥だったり、溜めがあったり、かえってそういう話の方がズンと受けとれることがあります。

長年聴いているロックミュージシャン、ボーカリストさんのエネルギッシュな声が好きです。ライブでMCもされて、Youtube動画で喋ったりされてますけど、本人は途中で咬むこと気にしていたんです。いやぁ…自分の言葉(※)でもって、考えながら喋って、ちょっと力入ったとこで言い直すとか、そっちのほうがいろんなものが伝わってくるんです、実際。わざわざ治すとかはしないでほしいなぁと密かに願っています。 ※ここでいう自分の言葉とは、どこか他所で言われていたこと・他人の請け売りではなく、そうだとしても自分で咀嚼済み、ということ。

おぎやはぎさんがむかし二人で喋ってるときでしたか、ベートーベンの第九番交響曲(合唱が入る、年末によく聞くあれです)のとくに第二楽章がロックだよねぇ!ってお話しされてました。ベートーベンより前は、音楽家・作曲家は宮廷のお抱えでBGM担当だったらしいのですが、ベートーベンは今でいうフリーランスで、作曲したものの楽譜を販売した印税や演奏会の興行収入、ピアノの家庭教師としての報酬で独立していたのでしたっけ? そりゃぁ、自分の主張や葛藤・苦悩が曲に反映されてロックになるはずだ!と、いまなら理解できます。

自分にとってのノイズは少なければ少ないほど快適かもしれません。でもそれは、視野狭窄のはじまりだったり、いつのまにか神輿に担がれているかもしれない危険な兆候だったりすることもあるかもしれません。ノイズにも重要な意味があるように思えます。

すくなくとも、人の心の機微に疎くはなりたくないなぁと思っています。

We will, we will rock you!! ―Queen ☆

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?