青春の轍をたどって:「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」感想
※ このnoteは「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」を含みます。
あのときバス停でメガネを落としたわたしと、落とさなかったわたし。乃木坂46「帰り道は遠回りしたくなる」のミュージックビデオは、このシングルをもって卒業する西野七瀬がアイドルになった世界と、アイドルにならず一般人のまま暮らす世界を並行して描いている。彼女が日本を代表するアイドルグループのトップにまで上り詰めたのも、きっと無数の選択と偶然の結果だ。だれもが思い通りの未来を勝ち取れるとは限らない。人生にはつねに「あのとき違う選択をしていれば…」という悔恨がつきまとうが、みずからの力の及ばぬところで行く末は決められていくものだ。だから人はそれを「運命」として受け入れるのかもしれない。
「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」は、平たい言い方をすれば、ピーターがひたすら自分の失敗の尻拭いをする物語だ。先走ってどんどん話をややこしくするあたりは師匠のトニー・スターク譲りだが、そもそもの発端はピーターの「都合よく現実を捻じ曲げたい」という願望だった。僕の正体が世界中にバレてしまった。しかもフェイクニュースで「パブリック・エネミー」扱いだ。良かれと思って取り組んでいたヒーロー活動で大切なひとに迷惑をかけてしまった彼は、ドクター・ストレンジに「魔法でなんとかしてくれ」と泣きつく。結局この魔法は失敗し、別のユニバースから続々ヴィランがやって来て、ピーターは最後に大きなツケを払わされる。「運命」を変えようとして、時空を歪めてしまったのだ。ここで大切なのは「人生にIFはない」という真理である。途中から軌道修正はかけられるかもしれないが、根っこからやり直すのは不可能だ。アイドルになった西野七瀬が「あのときバス停でメガネを落とさなければ…」と夢想しても、美大生として平穏に過ごす人生は手に入れられないだろう。「大いなる力には大いなる責任が伴う」というメイおばさんのことばが示すように、「親愛なる隣人」として人びとを救う以上、ピーターは大切な人を傷つけたり危険に晒したりする可能性を受け入れなければならなかった。すべてを失った後、寂れたワンルームからお手製のスーツでクリスマスの街に繰り出すピーターはあまりに孤独で陰惨だ。しかし、これは抗いようのない「運命」であり、スパイダーマンとしての「宿命」なのだと思う。
こうやって筋書きだけとたどると、ピーターの迎える結末は、18歳の少年がひとりで背負うには重すぎるように見える。ジョン・ワッツ監督による過去作は、サム・ライミ版やマーク・ウェブ版に比べても、学園モノ色が強く、軽快なノリが特徴だった。「スパイダーマン:ホームカミング」は、高校生の少年にとって世界でいちばん恐ろしいのは「彼女のパパ」である、という切り口から日常に侵食するヴィランとの戦いを描いた。「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」で進展するピーターとMJの恋は、彼の正体がスパイダーマンであるという「秘密の共有」によって熱く燃え上がる。ジョン・ワッツ監督のシリーズは、青春映画の王道をなぞりつつ、スパイダーマンのアイデンティティに深く切り込むことに成功したのだ。この二作がそれなりにポップだった分、ひたすら地下に潜って失敗の尻拭いをする「ノー・ウェイ・ホーム」は暗くて重い印象を受ける。
しかし、「ノー・ウェイ・ホーム」はこれまでのシリーズでいちばん「若さ」を切実に描いた作品だと思う。ピーターは取り返しのつかない失敗をしてしまう。彼にはまだ未経験の問題に直面したときに冷静に対応できるだけの余裕もなければ知恵もない。慌てふためき、その場しのぎの悪あがきで事態をどんどん悪化させていく。「ホームカミング」や「ファー・フロム・ホーム」では悪い大人に騙され、痛めつけられる。「ノー・ウェイ・ホーム」のきっかけとなった大学受験の失敗も、当局に掛けあえば円満に解決するはずだった。なのに、彼は真っ先にストレンジ先生のところに駆け込んでしまった。恥ずかしい失敗をしたり、心の底から挫折したりして、初めて学ぶこともある。ピーターの痛々しいもがきは誰もが通った道だ。僕だって恋人に振られてやっと気づけたことがある。仕事もたくさん怒られて少しずつ覚えた。そうやって人は成長していくのだと思う。しかし、ピーターの場合、その代償はあまりに大きい。彼は大切な人を失い、世界から存在そのものが抹消された。悪趣味な捉え方かもしれないがそのアンバランスこそが「スパイダーマン」シリーズ最大の魅力と言ってもいいだろう。
「ノー・ウェイ・ホーム」がほかのシリーズ作品と決定的にちがうのは、若くて未熟なピーターを教え導く先輩ピーターたちの存在だ。マーベル・シネマティック・ユニバースにはアベンジャーズのヒーローたちが居るけど、「スパイダーマン」や「アメイジング・スパイダーマン」におけるピーターの戦いは基本的に孤独だった。本作最大のサプライズであるマルチユニバース=過去シリーズのスパイダーマンの登場が、単なるお祭り映画的なギミックにとどまらず、まっとうな青春映画の仕掛けになっていることに注目しなければならない。
どうしようもない失敗をして深く傷ついたとき、他人のやさしい言葉が刺々しく響く。おまえに俺の気持ちなんてわかるはずない。寄り添ったふりをするな。そうやってまわりの親切をはねのけてしまう。そんなとき、助けになるのは「時間の経過」であり、案外「未来の自分」なのかもしれない。メイおばさんを殺されて憎悪に飲まれそうになったピーターを地獄から引き上げてくれたのは、紛れもなく、「未来のピーター」だった。あなたの絶望を完全に理解するのは不可能だけれど、想像することはできる。そうやってマルチバースの住人、すなわちIFの世界に住む「未来の自分」が手を差し伸べてくれる。できることなら上手くいっていない過去の自分に「こうすればうまくいくよ」と声をかけたい。どうしようもなく落ち込んで立ち直れないとき「これを乗り越えた未来のおまえはそれなりに楽しくやってるよ」と教えてくれたらどんなにいいだろう。ドクター・ストレンジの魔法によってすべてを失ったピーターがたったひとりで戦うエンディングに、少なからず吹っ切れたさわやかさを感じるのは、孤独と向き合い、自分の道を見つけてきたマルチバースのスパイダーマンの戦いを知っているからだ。きっとこの世界のピーターもうまくやれる。「親愛なる隣人」の未来は決して暗いばかりではないという確信がある。「ノー・ウェイ・ホーム」は青春映画である以上に、人生賛歌なのだ。
ところで「ノー・ウェイ・ホーム」を一貫する「青春の痛み」の極地は、最終決戦が終わったあとのドーナツ屋の場面だったと思う。記憶を消されたMJに会いに行くピーター。手元には彼女に自分を思い出してもらうためのメモ。しかし、緊張しながらも乗り込んだお店のレジに立つMJは、彼の知るMJではなかった。ピーターを見つめる表情は固く、「他人を見る目」をしている。僕は、この場面にずいぶんやられてしまった。個人的な話で恐縮だが、かつて長年付き合った恋人に別れ話を告げられ、結論を伸ばしに伸ばして最後に会ったデートの日、待ち合わせした彼女の目を見て、「ああ、完全にこの人は自分に興味がないな」と悟ったことを思い出したのだ。自分を好いてくれる人の目と、自分に興味がない人の目は全然ちがう。まるでこれまでの彼女とは別人のようだと他人事のように納得したのをよく覚えている。ピーターはMJのおでこに貼られた絆創膏をみて「大丈夫?」と聞く。するとMJは「うん、もう平気」と返すのだ。MJはピーターのいない平和な世界でしあわせに暮らしている。「ピーターはいなくても」平気なのだ。もう絆創膏の裏に傷はない。ピーターもまた、MJのいない世界を戦うのだ。この喪失もまた、多くの人が経験した「青春の痛み」なのだろう。
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