十人十色のアイドル論:「アイドルについて葛藤しながら考えてみた」感想
アイドルオタクの間で話題の新著「アイドルについて葛藤しながら考えてみた」を読んだ。
アイドルとは実に厄介なエンタメだ。外から見ると少々気味が悪い世界(少なくとも僕はそう思っていた)だが、内から見ると眩しすぎるぐらいに輝いている。楽しさもドキドキも切なさも味わえる。坂道のようなメジャーアイドルであれば毎日何かしらのコンテンツ供給があり、本書の中でも触れられているようにある種のインフラのように生活の中に食い込んでいく。
しかし、どれもこれも「生身の人間」を相手にしたコンテンツである。これがとてもややこしい。すべてが本物であるはずがないのに、そこにいるのは実体を持った人間なので、本当の出来事のように錯覚してしまう。宇佐美りんの小説「推し、燃ゆ」の主人公はあらゆる媒体の推しの一挙手一投足に目を凝らし、「解釈」し、わずかな隙間からこぼれ落ちる「真実」の光を追い求める。僕にも身に覚えがある。ブログやメッセージで綴られる文章、ラジオ番組のトークの声の弾み、バラエティ番組の一幕に至るまで、その様子を仔細に見つめることで、少しでもその人の実像に近づこうとする。しかしそれは蜃気楼を追いかけるようなもので、実際のところどんな人間であるかは知る由もない。香月孝史が本書の中で述べる通り、近年のアイドルはパーソナリティをどう売るかが肝で、この解釈のゲームはあらかじめ商品のいち機能として組み込まれているのだ。虚しいし病んでいる。でも、楽しいからやってしまう。悩みながらも抜け出せない、本当に面倒くさい趣味である。
このような葛藤は、特段珍しいものではないようだ。そうでなければ本のテーマにならないし、実際、僕がアイドルにハマってから出会った人々は、SNS上で交流したり、直接会って飲んで話したりする限り、少なからず同じような想いを煮え切らないモヤモヤとして抱えている。本書で言うと第一章「絶えざるまなざしのなかで」、第二章 「「推す」ことの倫理を考えるために」、第五章「キミを見つめる私の性的視線が性的消費だとして」あたりに詳しく書いてある。特に第五章の金巻ともこの文章はかなり生々しい。あまりに主観的かつ観念的なのでほぼエッセイと言ってよく、良くも悪くも空気の読めない文章になっている。「加山雄三の新世界」を聴いたときに水曜日のカンパネラだけフルカバーの新曲で、こいつだけ趣旨理解してないだろ?となったのを思い出した。しかし、これが本の真ん中に置かれているのが良いコントラストになっているのは確かだ。
個人的に唸ったのは第九章「もしもアイドルを観ることが賭博のようなものだとしたら」だ。僕は、僕がアイドルを推し始めたキッカケは「諦め」だったと思っている。ほかのnoteでも書いている通り、失恋やコロナ禍の閉塞感で、どうにもうまくいかないときに日向坂46の輝きにハマった。抜け出せなくなった。自分の中で挫折と諦念がうまれて初めて、いつまでも完成形を見せてくれない、それでいてどうしようもなく輝いていて自分にはない可能性を秘めているアイドルに魅力を感じることができた。この章の著者である松本友也は、この無責任に他人の時間にベットする抗しがたい魅力と後ろめたさを「賭け」になぞらえる。なるほどと膝を打った。もちろんすべてのアイドルオタクが僕と同じだとは言わないけれど、楽しいなと思いつつ、あんまりこの魅力を知りたくなかったかもしれないと時々頭をよぎってしまう苦しさを的確に言い当ててくれている気がした。
日向坂46の宮田愛萌が自身のInstagramで「アイドルについて考えることは、ひどく難しいことだと思います。だからこそ、こうして論じられるのだし、それを読むのが面白いのではないのかな、ということをこの文章の結論にしようと思います。」と触れたように、この本の「アイドル論」は多角的で、お互いに矛盾し、かつ、密接に絡み合っている。書き手の性別やバックグランドも異なれば、「なぜアイドルに惹かれるのか」も十人十色だ。男性アイドルに関する言及が少ないのが物足りないが、個人的にはあたらしい目線も得られて、満足の内容だった。これを受けて自分なりにアイドル論を…とも思ったけど、まとめるにはまだ時間がかかりそうなので、次の機会にしよう。