見出し画像

とてつもなく長いエスカレーター

崩れたスーツを着て、忙しそうにハンカチで額の汗を拭いながら歩くサラリーマンがいる。そして、小さなポーチを手に持ち、昨日見たドラマの話で盛り上がるOLいる。そんな人たちが行き交う賑わったオフィス街。

「はい、申し訳ございません!」
見回すと携帯電話に耳に当てながら、頭を下げている人が必ず1人はいる。

休日には、この喧噪がすべて無くなるのだが、今日は平日だ。
時折、すべてのものを遥か遠くまで飛ばそうかという勢いのビル風が、すごい音を立てて吹きぬける。

周囲を取り囲むのは、太陽の光をそのままの眩しさで反射させている、ガラス張りのビル群。

そしてそのビル群の、ビルとビルの間を抜けて行ったオフィス街のはじっこに、とってもとっても、とっても長い、どこまでも続く先の見えないエスカレーターがある。1人がやっと乗れるサイズのエスカレーター。終わりの見えないエスカレーター、どこまでも続くエスカレーター。

乗っている人を見たことはない。ただ乗ったことがある人はいるらしい。
最終的にどこに行きつくのかは聞いたことがない、なぜなら乗った人が戻ってこないから。


今、サラリーマンFは長いエスカレーターの入り口に立っている。
顔は青白く、体も細かく震えている。

周囲を時々人が通るが、足早に通り過ぎるだけで、誰もFに気付いていない。

Fは毎日仕事中にミスをする。当然、今日もミスをした。取引先の会社名を間違えてしまった。毎日ミスをするから怖がって仕事をしている。それが余計にミスをしてしまう、まさに悪循環。

いつもなら上司も呆れて終わりなのだが、今日はミスした相手が悪かった。間違えた取引先の会社は、昔からお世話になっている太く長い関係を築いてきた会社だった。さすがに上司も堪忍袋の緒が切れ、3時間以上お説教が続いた。

そんなこんなでFは今、とってもとっても長いエスカレーターの前にいて、エスカレーターに足を掛けようとしている。

怒られたぐらいで何を…と思うかもしれないが、特に目的もなく働いているFにとっては、「もうどうなってもいいや」のラインは驚くほど、近くにある。

Fが自問自答している間も、そばを何人かの勤め人が通っているが、みんな急いでいるのでエスカレーターの前に立ち尽くしているFのことは見えていない。
その仕打ちもFの背中を押した、そして…。右足がエスカレーターに乗った。そこからは自動的にFをどんどん先へ運んでいく。


自動的に体が運ばれながら、頭に浮かんできたのは、仕事のことではなく家族のことだ。家族のことなんて今まで考えたこともなかったが、悲しくもこんな状況だからか、人生で初めて両親の顔が浮かび、温かい熱が頭の中に広がった。

戻りたいという気持ちがだんだん浮かんできて、後ろを振り返った時には、もう入り口は遠くに見えていた。いつも乗っているエスカレーターと同じスピードなのに。

一体どこに連れていかれるのか。
恐怖心と同時に家族への感情も入り混じって、まさにパニック状態に。

どんどん、どんどん、どんどんエスカレーターは先へ先へと進んで行く。

これまでのサラリーマン生活、その前の学生生活、そして小さい頃の家族での会話など、いろんなことが頭の中を駆け巡る。

死ぬのか?それとも…


いつの間にか周りには、圧倒的な存在感を放っていたビルが無くなっていた。

見たことのないプレハブの建物や畑がポツポツと出てきた。誰かが今も住んでいるのが分かる程度に生活感がある。さっきまで洗濯物が干してあったのではないかと思われる竿たけ。転がっているバケツには透明な水が入っている。

どんどん、どんどんエスカレーターは先へ進む。

次に現れたのは公園。兄妹だろうか、小さい女の子と少し大きな男の子がかけっこをして遊んでいる。石レンガの上では、猫が気持ち良さそうに寝ている。女の子のスカートがフワフワと揺れている。あそこでは心地良い風が吹いているようだ。

どんどん、どんどんエスカレーターは先へ進む。

次に見えてきたのは、とても大きな木。
木の根元にできた小陰で、おじいさんとおばあさんが楽しそうにおしゃべりをしている。水筒の中の飲み物を、おじいさんが持っているコップに、おばあさんが注いであげている。お互いの行為がすべて当たり前のことのように自然と流れている。ときどき2人の目の前を、風に揺られた葉っぱが通過する。あそこでは心地よい風が吹いているようだ。

どんどん、どんどんエスカレーターは先へ進む。

気持ち良さそうに自転車をこぐ女性。音楽を聴いている。
なにを聴いているのかは分からないが気持ち良さそうに音楽に浸っている。目をつぶって、風を感じている様にも見える。女性の髪の毛が風になびいている。
心地良い風に乗って、自転車がグングン加速している。

どんどんエスカレーターは先へ進む。

大きな川が見えてきた。
川べりで釣りをしているおじさんがいる。特に釣果を気にせず、釣り糸を垂らしている様に見える、おじさんはとっても良い顔をしている。なににも縛られていない今この瞬間を、深く丁寧に過ごしているようだ。
時々おじさんの足元に生えている草がゆらゆらしている。心地良い風が吹いているようだ。

世の中には、こんなにのんびりと時間を過ごしながら、一瞬一瞬を大切に、丁寧に暮らしている人たちがいる。
そのことを初めてFは知った。

その時、Fの元にも心地良い風が吹いた。
あまりの心地良さに目をつぶり、息を吸うと、すべての嫌なことが頭の中で小さくなっていった。そして、吸った息をゆっくり丁寧に吐きだすと、嫌なことがすべて体の外に出ていった。

心地良い風に身を任せてゆらゆら揺れていると徐々に風が弱っていき、やがて止まった。
Fはゆっくりと目を開けた。
そこはとてつもなく長いエスカレーターの入り口だった。

Fはゆっくりと歩き出した。
もちろん会社の方にではない。


この記事が参加している募集

#おうち時間を工夫で楽しく

95,506件

ひとり~の小さな手~♬なにもできないけど~♬それでもみんなの手と手を合わせれば♬何かできる♪何かできる♪