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現在のリトル・フィートはとても良いバンドだ

 タイトルどおりなのだが、現在(2020年〜)のリトル・フィートは、ライブ・バンドとしてとてもすばらしい。

 フィートは2019年にギタリストのポール・バレアを亡くした。コンビを組んでいたギタリストのローウェル・ジョージの死(1979年)からほぼ40年後の出来事だった。ドラマーのリッチー・ヘイワードが2010年に亡くなっているので、フィートでは3人目の物故者だった。

 ローウェルの死後、フィートは一度解散したものの80年代に再結成。ギタリストとしてフレッド・タケットが加入し、ヴォーカルパートの補強のため、リードヴォーカルとしてクレイグ・フラー(エリック・カズと双頭で名盤を残す)が入っている。その「レット・イット・ロール」は80年代後半らしい軽妙なロックアルバムで、セールス面でもフィートの復活を印象付けた。が、それまでのフィートらしさは欠けていると言わざるを得なかった。クレイグ脱退後は女性ヴォーカリストショーン・マーフィーを迎え、90年代を乗り切ることになる。ボニー・レイットとフィートの縁を考えると、マーフィーという女性ヴォーカルの起用は意外ではなかった(声質も近い)。が、いかんせん、ライブにおいてもスタジオ作においても、中途半端な感じが拭えなかった。当時のアルバム「Ain't Had Enough Fun」は、フラー時代よりはずっとよいが、パンチに欠けるのも事実だ。

 90年代はサウンド的に、2000年代前半はメンバー的に(バレアの病気やヘイワードの後任のドラマーの硬めのグルーヴ感)、フィートらしい粘り腰に欠けるサウンドだった。同時代のジャム・バンドの流行を考えれば、フィートはもっと「やれる」はずだったろう。

 だが、2020年からのリトル・フィートは、掛け値なしにすばらしいバンドだ。理由は新しい「声」と「グルーヴ」が得られたから。またギターの力強さも戻ってきた。まずはヴォーカル/ギターのスコット・シャラードが、その後ドラムのトニー・リオンが加入したのだ。

 映像はジョージ作の『スパニッシュ・ムーン』〜バレア作の『スキン・イット・バック』という「アメイジング!」(ってひどい邦題)からのメドレー。ビル・ペインのトリッキーな鍵盤ソロが上滑りすることもなく、連携もスムーズ。粘っこいシャラードのギター、タケットのドライなギターのサウンドの絡みもグッドである。シェラードはスライドもよい。また、リオンは歌えるドラマーであり、ヘイワードに近いスタイル。

 出自を見ると、シャラードはグレッグ・オールマン・バンドに在籍したほか自身のトリオなどで活動。リオンはジャズにルーツをもちつつ、オラベルやCRBといったバンドに参加し、リヴォン・ヘルムやフィル・レッシュ、アンダース・オズボーンらとも活動してきた。

 シャラードも参加したグレッグの遺作「サザン・ブラッド」では、くしくも『ウィリン』を演奏する。「サザン・ブラッド」は遺作にしてソロ最高傑作ではなかろうか。

 私が愛するクリス・ロビンソン・ブラザーフッド(CRB)。ギタリストはニール・カサールで、惜しくもバレアと同年に亡くなる。CRBはもちろん、ライアン・アダムスの諸作、ティフト・マーリットの「タンバリン」を愛聴していた私は、驚きのあまり声もでなかった。

 こうしたソウルフルでファンキーなバックグラウンドで培われた、フレッシュでひきしまったグルーヴがフィートのベテラン勢と合体。彼ら名手が自由闊達に演奏する余裕が生まれている。またシャラードの落ち着いているが、色気のあるヴォーカルはフィートのメロディのよさも引き立たせている。こうして、特に2021年のリトル・フィートのパフォーマンスはまちがいなく充実したものになった。2000年代のスタジオ盤は精彩を欠いた印象だったが、ソロ作も出しているシャラードがリードすれば、バンドのよさを引き出した良い作品が生まれるのではないだろうか。これは、例えば10年ほど前に、ジョー・ヘンリーがレジェンドたちをプロデュースし、現代性を獲得した路線と同じだろう。または、ライヴだけで言えばデッド・アンド・カンパニーとしてジョン・メイヤーが加入したデッドか。

 仲間の死という痛みを伴いながら、リトル・フィートは自己模倣に陥らない復活を果たした。

 ちなみに、シャラードはインスタを割と更新しており、愛用ギターをカジュアルに弾く姿を目にすることができる。こうした「現代の」ギタリスト(やミュージシャンたち)の自宅での演奏の様子などを手軽に聴くことができるのは、インスタならではだろう(いろいろ問題はありつつも)。シェラード以外にも、私が好きなブルース系ギタリストである、カーク・フレッチャー、ジョシュ・スミス、アート・メネゼス、アリエル・ポーセン、マーカス・キングなども、インスタグラムを頻繁に更新しているのでチェックしてほしい。

 リトル・フィートのような良いバンドの復活を見聞きするたびに「音楽に属人性はあるか」という問題(?)について考える。ディープ・パープルを例に出すまでもなく、メンバーチェンジを繰り返せば繰り返すほど、「誰のバンドだっけ?」ということになる。だが、そのバンドが素晴らしいサウンドであれば、本来はそれでよい。属人性に縛られてしまえば、その歌唱者や演者が死ねば、彼らの音楽も過去のものになる(録音のほったんはそもそも「ゴースト」の声を聞くことだったとはいえ)。それが「クラシック」になるためには、属人性のくびきから解き放たれなければならないだろう。楽曲カヴァー文化の成熟度が低い我が邦の「名曲」の行末やいかに。

※写真はJam Base記事より。

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