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両親

こんばんわ。

今日は僕の両親のことについて話したいと思います。

今の『大崎淳矢』を語る上でベースであり、大きな影響を与えてくれたのは両親だと言っても過言ではない。

今日はとりあえず母親から話します。


僕がサッカーを始めたのは幼稚園の頃だ。きっかけは兄がやっていてかっこいいなぁ、と思ったからとうっすら覚えている。

小学校に上がり1年生の頃はサッカーをやっていなかった。だけど、人数がたりなかったときなどに助っ人で呼ばれて、点をきめてチームを勝たせるという謎のポジションを確立していた。

2年生になり、小学校のスポーツ少年団に正式に入団した。友達とサッカーができて、僕が点をきめて勝つ。この頃はサッカーって楽しいなーとしか思っておらず、居心地はかなりよかったのを覚えている。


あるとき事件がおきた

ある大会でエースである僕にマークを3人もつけてきて、チームも個人も完敗したのだ。そのチームの名は『富山北FC』というチームだ。

当時の僕はこんちくしょう精神は一切なく、試合中にも関わらずにふてくされてやる気をなくし、一切ボールを追わなくなってしまったのだ。

そんな僕の姿を見た母親がブチ切れた

『じゅん!なにしとんがけ!やる気だされま!!!』

今でも覚えている。富山弁ばりばりの言葉をぶつけてきたのだ。笑

数日後。母がこう僕にいってきた。

『少年団やめて、北FCにはいるよ』

時がとまった。何を言ってるのかわからなかった。なんで負けたチームなんか行かなきゃいけないのと思った。1番は友達と離れたくなかった。

答えはもちろん『NO』だった。

しかし母はしつこいくらいに僕にいってきた。このやりとりは数週間続き、押しに負けた僕はとりあえず練習参加だけなら行くという条件で、練習に参加した。

衝撃を受けた練習参加

人見知りで臆病な僕は、初めて知らない所に行き衝撃を受けた。僕は井の中の蛙だったのだ。

一言で言うと、みんな僕より上手かった。

加えて、当時では珍しい芝で練習ができるという環境、ユニークな練習方法、指導者からのアドバイス。全てが初めてのことだった。

言うまでもなく、今まで以上にサッカーにのめり込んでいった。そして、数ヶ月の練習参加を経て、めでたく富山北FCに入団することになった。

そしてここからサッカーに対しての向き合い方がかわった。『友達とできて楽しいな』から『サッカー選手になりたい』にかわったのだ。

僕の夢を本気で追いかけるきっかけをつくってくれたのは母だった。


後で聞いた話だが、少年団をやめるときも他の保護者から心ない言葉を言われたと聞いた。少年団にいたらわざわざ送り迎えをしなくてもいいのに、より良い環境を僕のためにと与えてくれた母に感謝だ。


色々な選択肢の中から自分で選択

母はどうしても僕をサッカー選手にさせたかったわけではないはずだ。僕の好きなサッカーをより良い環境でやらせてあげたい、という思い1つだったと思う。

だから絶対にサッカーをやりなさい。プロになりなさい。と言われた事はない。

僕が選択して、そこに母の強制は一切なかった。はっきり言って、サッカーをやらない選択もあった。

そのくらいたくさんのことをやらせてもらい、見させてもらった幼少期だった。

最後に

昔から母は、僕のやりたいことにNOとは絶対に言わず、好きな事をとことん一緒に応援してくれた。

僕も親になり、自分の子供には色々なものを見せて、色々な選択肢を与えてあげたいなと思う。

そこから子供が自分で選択して、決断できればいい。

勿論僕が与えた選択肢以外でもOK。好きなことをやればいいと思う。

僕も節目節目は自分で決断してきたように、子供にも勇気をもって決断して欲しいなと思った今日この頃。


ちなみに、この写真は幼稚園の頃の将来の夢だ。この夢は、僕がゲームが好きで勝手になりたいなと思っていたこと。


今はサッカー選手。人生なにがあるかわからないね!笑




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