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舎利考 ~誇張と真実

仏教典を読んでいると、しばしばパラノーマル・アクティビティとしか表現のしようがないようなムチャな表現に出くわす。

特に高僧の臨終の瞬間の描写は激烈を極めており、「ゴータマ・ブッダが亡くなった瞬間、沙羅双樹の花は一斉に落ち、地面がデコボコと上下した」などというのに始まり、「80m以上垂直に跳びあがった挙句に上空でコナゴナに砕け散った」とか、「身体から自然に焔が吹き出して人体のみを焼き尽くした」とか、「死後一週間以上経過しているにもかかわらず、呼びかけ続けたら起き上がって普通に会話し、食事までしてそれからもう一度死んだ」とか、ただもう、呆然とするばかり。

で、今はもちろん、1000年以上昔の研究者たちも、「いやいやいや・・・ そんなことが現実にあるわけがないので、これはウソ、というか喩え話であるに違いない」と理解しており、私もそう思っていた。

達磨大師と問答したという話で有名な梁の武帝は、仏教好きのあまりに坊さんのコスプレをして「放光般若経」の講義をするなどということをやっていたらしいのだが、その際、「地面が光を放って天から花びらが降り注ぐのを感じた」のだという。

まぁ、実際に虚空から花びらが大量に降ってきたり地面が光ったりなどするわけもないので、これは明らかに、武帝が「あたかもそうであるかのように感じた」、つまり「気のせい」といってよいだろう、と。(原文でも「感得」となっている)

実際、社会生活においても、自分の思い描いたように成果が次々とあがり、人類の総幸福度向上に貢献できている(という錯覚に陥っている)時には、あらゆるものが光り輝いて見える(ような気がする)ものである。

要するに前述のような「誇張」は、全て「~であるが如く」として読むべきなのだと。

高僧を荼毘に付すにあたっても、例えば鳩摩羅什はその今際の際、「確かに私は、皆がインドの言葉がわからないのをよいことに、中国語への翻訳に際しては原文を恣意的かつ大胆に取捨選択し、あまつさえ原意を改変したり自説を混入させたりと、大変な「超訳」ぶりを発揮してきた。そのおかげで、学術的な正確さや伝統を重んじる学者たちから猛然とディスられたりしたものだが、今こそ見るがいい。私の翻訳方針が真に正しかったとしたならば、荼毘に付された後、舌だけが焼けずに残るハズだ!」などと宣言し、果たして肉体が全て焼け落ちても舌は焼け残ったといい、「霊樹和尚の頭蓋骨の頭頂部は金属でできていた」といい、「五色の真珠の如き舎利(遺骨)が得られた」などという。

過去に何度も親族の葬式に立ち会った経験からしても、そんなことがあるハズがないことはわかっている。

入れ歯等の金属が残ったり、骨の一部が着色していたりということはあるにせよ、「遺骨がカラフルな宝玉と化す」などということがあるワケがないのだ。

が、先日とある学者が最近実際に体験した話として、次のようなことを語っているのを読み、思わず戦慄した。

チベットに近い辺境の村に20代で隠者となって肉や穀物を絶って仙人じみた生活をしていた者がおり、人懐こい性格でしばしば人里に降りてきては住民たちと普通に冗談を言い合って笑ったりしていた。

その者が40歳ぐらいになったある時、ふと村に顔を見せなくなったことを心配した住民が住処を訪ねてみると、座ったまま眠るように死んでいるのを発見。

折しも季節は真夏であり、連日の猛暑のさなかであったにもかかわらず、死後一週間以上経過していると思われるその死体は一切腐敗しておらず、あまつさえ辺りにはいい匂いが漂っており、運び出すために触れてみると身体は死後硬直もなく、普通に生きている人と同じように柔らかだった。

その話を耳にしたダライラマは、特殊な火葬方法を指示した。

それは「炭焼きのように土で窯を作って中に遺体を安置し、火をつけてから入り口を土で塞いで、一定期間は絶対に開けてはいけない」というものだったのだが、時期がきて窯を開いた時、その場に居合わせた者は全員驚愕した。

なぜならば、窯の中に赤・黄・緑・紫・青の五色の宝石が大量に散らばっていたからである。

で、その話を人づてに聞いて、実際に見に行ってみたその学者は、比喩とかではなく、本当にアメジストやラピスラズリ、ルビー、真珠のたぐいが大量に散らばっている光景を目撃し、「いや、これは誰かがどこかから宝石を持ってきて投入しただけなのではないか?」と、激しい疑念にとらわれたのだとか。

しかし、慎重に全体を観察してみたところ、わずかに残った普通の頭蓋骨の下半分ぐらいから骨が徐々に崩れて粉となり、それがさらにあちこちで結晶化して丸い塊となっていき、最終的に真珠、しかも五色の、が形成されていく過程をまざまざと見て取れたため、これはもう、信じざるを得ないという結論を出したのだそうだ。

彼は付言していわく、「我々が従来、誇張や比喩であるに過ぎないとしてきたものには、どうやら幾ばくかの事実が含まれているようだ。(なんでもそのまま鵜呑みにするのは学者として正しくないが、)頭から疑ってかかって信じないという姿勢でいると、重要な真実を見落としてしまう恐れがあるのだ、ということを思い知った。」、と。

なるほど、これは勉強になった。

2012年9月23日記す

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