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“3年生なのに可哀想”って思われても試合に出られるチャンスが増えるならなんでもいい

作品序盤、このスガさんの表情にゾワっとした人も多いと思います。

見栄とか意地が、「”周りの目”に映る自分」よりも、「”自分が認識する”自分」に置かれているからこそ、この発想に辿り着けるんですよねきっと。

人の目とか、恥ずかしい気持ちとか、ひとまずどうでもいい。まずは試合に出て、勝利に貢献する。そこに自分の存在価値を見出す。見出させる。そんな意味が、「試合に出る」という表現に込められている気がします。

見栄と意地を張るポイントが、一段上のレイヤーなんです。

試合に出るためなら、他のことは些細なこと。恥ずかしさも練習の辛さも、プレースタイルを変える難しさも、なんてことない。影山という「環境」を受け入れて、自分にできる生存戦略を実行するのみ。

そこまで腹がくくれているから、目がキマってるわけです。

ぼくがよく「サイコパスだ」って言われるのも、きっと同じような理由なんだろうな。猫の幸せ、動物の搾取構造からの解放。その目的のためなら、一時的なストレスとか恥ずかしさとか、食生活なんて些細なもの。だから頑張れるし、だから為せる。それだけのこと。

覚悟を持って所与のものとして受け入れ、それに適応し切れるか。

人間のエゴイズムがいくところまでいったこの社会で、それを課題だとすることは不合理でしかないけれど、不条理ではないからね。そこに見栄と意地を張って、がむしゃらに生きていきたいね。

一緒にいる人には苦労かけるかもしれないけど(それは決して些細なことではないけれど)、いっしょに楽しめるといいな。

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