戸籍に座右の銘の記載が必須になって、五十年が経った。

 戸籍に座右の銘の記載が必須になって、五十年が経った。
 二〇××年代初頭、十分な告知も説明もないままひっそりと可決したこの法案は当初、国民から大反発を食らったらしい。
 個人の思想を国で一元管理するなんてあり得ないということで、座右の銘を明記することで起こるであろうありとあらゆる問題が指摘され、糾弾され、デモも相当あったと聞く。
 この強引な法改正によって、十八歳以上の全ての成人が、第一座右の銘から第三座右の銘をまでを届出なければならなくなった。
 届出の猶予期間は二年間。
 施行直後は素直に登録に行くほうがまれだったようだが、座右の銘の表示がない戸籍謄本は無効とされ、行政上の手続きが全て不可能になるという大変強制力のある法律だったことから、反対していたひとたちも少しずつ登録し始めたらしい。
 そして、猶予期間からさらに二年が過ぎた二〇××年、全成人の座右の銘登録が完了したとされている。
 僕が生まれたころには、大人の戸籍に座右の銘が三つ書かれているのは当たり前になっていたから、当時の世相がどんな混乱ぶりだったのかはわからない。
 座右の銘ネイティブ世代の僕からすると、むかしのひとはどうやって座右の銘のない戸籍で大事な手続きができていたのか? というほうが不思議だ。

 戸籍法によると、最初に第一座右の銘を届出るのは十八歳の誕生日当日から可能で、二十歳の誕生日前日までに第三座右の銘まで登録する。
 その後、座右の銘が変更した場合は、二週間以内に区役所の戸籍課に届け出なければならないとされている。
 なんでもインターネットで済む世界だが、選挙と免許と戸籍だけはいまも、五十年前と変わらず本人が実地へ行かなければならない。
『夏休みに海外旅行をして価値観が変わり、座右の銘も変更しなくちゃならなくなったけど、役所はやってないし連休明けの仕事は休めないし届出がやばい!』みたいな大人の話はよく聞く。
 人の人生は十人十色だなんて言ったりもするけれど、座右の銘の届出が毎年三月に集中することを考えると、みんな結構おんなじような人生を歩んでるんじゃないかと思う。
 進学・就職・転職の前に決意を新たにする、みたいな。

 五十年前危惧されていた個人情報?の問題は、現在全く起きていない。
 そもそも戸籍というのは、座右の銘があろうがなかろうが、友達に気軽に見せたりするものではない。
 隣人の本籍地を日常会話で知ることはないように、日常生活で他人に対して、自分の座右の銘を語る場面というのは特にないのだ。
 それに先述のとおり、座右の銘を変えるのは大変なので、みんな真剣に自分の人生をどう生きていきたいかを考えるから、この国は色々な争いが減ったとさえ言える。
 結婚するときは当然相手の座右の銘を見て判断するし、相手の戸籍謄本を取り寄せて、家族構成とともに両親や兄弟姉妹がどんなひとなのかを知る。
 座右の銘の記載がなかったころは、結婚するまで相手の家族がどんなひとだかは分からなかったと聞くから、そんな大博打みたいなことしないと好きなひとと結ばれることができなかったなんて……むかしのひとはすごいなと思う。
 ほかにも、ローンを組んだり家を借りたり生命保険に加入したり、大きいお金が動くときにはしばしば戸籍謄本が必要になるわけだが、これについても僕は、むかしのひとは座右の銘を審査項目にかけずにお金のやり取りをしていたのかと、ちょっと信じられない。
 相手が本当に返してくれるかなんて、会話や顔つきだけじゃ分からない。
 役所に届け出て正式に受理された考え以外を――口先だけかもしれない綺麗な言葉を――信じて経済が回っていたのか、と。

 話は少し変わるが、我が国の現行の法律では、座右の銘の内容で人を差別したり、教育や就労などで不利になるようにしたりすることは、強く禁じられている。
 最低でも執行猶予なしの禁錮半年という重罪なので、凶悪犯罪として認識されている。
 まあ、それは当然だ。人を包丁で刺すのは犯罪だけど、人の考えを馬鹿にして心を傷つけるのは犯罪じゃないなんていう、矛盾した道理がまかりとおっていたむかしのほうが変だ。
 もうひとつ禁止されているのは、座右の銘の代理設定。他人に頼むのも、誰かの代わりに考えてあげるのも、重罪になってしまう。
 これは法が施行されて数年後、座右の銘が社会に当たり前になったころに、座右の銘をめぐる悪いビジネスを始めるのが社会問題になったために作られた決まりだという。
 占い師感覚で作ってあげるひとから、がっつり違法なセミナーや高額情報商材にしたり、シンプルに詐欺まで。反社もそれで相当儲けたそうだ。
 しかし現在はそういうものは全て取り締まられるようになったから、そのような事件は、数年に一回、後先考えない奴が起こすくらいだ。

 座右の銘は、大人なら誰もが必ず三つ持っているもの。
 ちゃんとした大人は、座右の銘を他人に言いふらしたり自慢することはなく、心に秘めて、自分の決めた生き方をしようと努力している。
 僕は、こういう制度の国に生まれたことを誇りに思っている。

 布団から顔を出して壁掛け時計を見ると、時刻は0:01になっていた。
 十八歳の誕生日おめでとう、自分。
 ベッドから抜け出し、勉強机のライトを点け、きのうのうちに役所でもらってきていた『座右の銘届』を引き出しから取り出した。
 椅子にぴっしり座り、百均ではない少しなめらかなボールペンを握り、説明をよく読む。
 読みながら頬が紅潮していくのがわかる。これで僕も大人の仲間入りなんだ。
 暗い部屋を振り返ると、五年前に交通事故で死んだ両親の遺影がニコニコして僕を見ている。
 両親に恥ずかしくない大人になるために、僕はずっとこう考えていたんだ!

 ボールペンが、薄い紙の上に滑り出す。

【第一座右の銘】_____________________________
【第二座右の銘】_____________________________
【第三座右の銘】_____________________________

(了)







この作品は【古賀コン】に参加しています。

▼全作品リスト
(じゅんすたはNo.62です)

▼結果発表
同率3位(4票)でした。お読みいただいた方、投票してくださった方、ありがとうございました!

あとがき

 普段作品のあとがきは書かない派のじゅんすたですが、今回はお祭りなので、ちょっと語ってみます。

 この話を読んで、良いな世界だなって思った方は多分とても心がピュアで、やばいなって思った方は大人の思考で、すんなり納得した方は没入力が豊かなんじゃないかなって思っています。
 ご感想はあなたが感じたそれが正解なのですが、著者的に思っているのは、この秩序立った社会は「意思表示ができない人々」の存在が丸無視されている欠落した世界なのかもしれないということです。
 病気や障がい、言語の問題などで座右の銘を表現できないひとや、事故に遭ったり認知症になったりして、一度届け出た座右の銘が変更できないままになっているひともいるかもしれない。
 それに、みんながみんなちゃんと届け出ているとは限らなくて、現実世界で住民票を何年も実家に置きっぱなしのひとがいるくらいですから、いちいち変えないよっていうひとも多分います。
 それなのにこの世界は、戸籍に表示された文がその人の思想であると全面的に信じることで成立しています。

 古賀コンの面白いところは「1時間で書ききる」というルールで、この話は、執筆1時間段階で世界が止まったためにこうなりました。
 もし規定時間が2時間だったら、社会的弱者になってしまう人々を絶対に取り残さない世界になるよう、じゅんすたは必死に文字を重ねただろうし、3時間だったら地獄のケースまで書いたかも……。
 でも、1時間時点で、この世界の制度は止まりました。
 一斉ストップの「はい、ここまで!」でできたのがこの話だった、という、その制作状況も含めて、書いていてとても楽しい作品になりました。

 ちなみにじゅんすたは、もし本当に座右の銘が必須になって50年経った世界に生まれていたら、多分この少年と同じく、良い制度だなって思ってるかなと思います。
 本当は本心を届け出していないひともいるかもしれないけど、それでもその言葉を額面通り受け取って良いと保証されている世界なら、それはけっこう楽に生きられそうだななんて思います。

 あなたはどうですか? この世界は思考停止でできているのでしょうか。それとも、性善説で回る平和な世界でしょうか。
 この座右の銘システムを全国民に優しいものにするには、どうしたらいいと思いますか?

(2024/6/7 追記のあとがき)

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