僕の冒険初日はひどくあっけなく、笑ってしまうほど美しかった

お題:自己主張 制限時間:1時間

 愛犬・ジャックが虹の橋を渡って、まもなく二十年になる。
 十歳の僕とジャックの、みずみずしい冒険譚。
 いまでも、いくらでも、鮮やかに思い描ける。
 永遠に続くと思っていた――終わりがあるなんて思いもしなかった――あの麗しい日々の『最初の一日』を、振り返ってみようと思う。

 僕は生まれつき体が弱くて、雨が降れば熱を出すような子供だった。
 週に三日学校に行ければいい方で、いつも自室のベッドの上で学校のチャイムを聞き、『また休んでしまった』という罪悪感と手を繋ぐ日々。
 両親は優しくて、いつも僕の体のことを第一に考えてくれていたから、恵まれていたと思う。
 そんな両親だもの、僕が犬をねだったら、即刻却下した――優しいエピソードだ。

 犬は、ずっと欲しかったとかいうわけではない。
 ある日突然欲しくなったのだ。
 僕はいつも、『良い子になれない以上、悪い子にはならないようにしよう』という考えのもと生きていたので、十歳の誕生日プレゼントを尋ねられて『犬』と答えたのは、初めての自己主張だったと思う。
 毛が肺にとか、お散歩で体調がとか、ありとあらゆる心配をする両親に『欲しい』の一点張り。
 最終的に折れてくれたのは、父が曽祖父に叱られたかららしい。
 子供なんて、大事にしようがしまいが死ぬときは死ぬんだから、好きにさせろ……と。
 さすが、戦争を生き抜いてきたひとの言うことは違った。
 果たして僕は、誕生日の夜、ミニチュアダックスフンドと対面した。

「名前はね、もう考えてたんだ。ジャック。おいで、あそぼう」
 これが、ジャックに初めてかけた言葉だった。
 小型犬の赤ちゃんは、キャリーケースの中から困った顔でこちらを見上げていた。
 両親は、僕らの絆の第一歩を邪魔しないよう、じっと息を潜めていてくれた。
 僕はしゃがんでジャックに目を合わせてちょこっと両手を開いていた。
 こう着状態、十五分。
 我ながらよく粘ったものだと思うけれど、ジャックがおずおずと出てきてくれたときの喜びは、いまでもはっきり思い出せる。
 お腹の底からうわーっと、泡ぶくでも出るんじゃないかと思った。
 でも僕は歓喜大爆発を無理やり抑えて、怖がらせないようにそーっと、狭すぎる額を人差し指で撫でるにとどめた――よく我慢できたなと思う。
 ジャックはふにふにと床を嗅ぎながら出てくると、なんと、僕のひざのところにやってきた。
 そんな、まさか、こんなに一瞬で心が通じ合うなんて!
 ……と思ったら、ジャックはそこで、うんちをした。
 彼なりの自己主張だったのかもしれない。
 死ぬほど笑って、喘息の発作が出て、僕はあっけなく自分の部屋に退場になってしまった。
 ベッドの中でゴホゴホとむせ苦しみながらも、心の中は興奮しきりで楽しくて、最高だった。
 僕は布団にくるまって「ううううう」とか「おおおおお」とか、やり場のない高揚を逃がしていたのだけど、両親にはそれが泣いているように聞こえたらしく――ジャックの葬儀のときに初めて知った――父がジャックを部屋に連れてきてくれた。
 僕は布団をめくり、ジャックを中に入れた。
 子犬、ちっちゃい、あったかい……。
 ジャックは、居心地の良い場所を求めるように、僕のお腹のあたりでもぞもぞと動いていた。
 とがった鼻先に何度も脇腹を突かれて、くすぐったくて、いまにも噴き出しそう。
 でも僕はジャックを驚かせたくなかったから、息を詰めて、ゲラゲラと笑い出しそうなのを必死でこらえた。
 いまから考えれば、初めて来た日に同じ布団に入ってくれるなんて、なんともおとぎ話めいていた。
 でもジャックは、そういう犬だったのだ。すごく犬らしくない。
 僕は、おとなしく眠りについた背中をそっとなで、やわらかな垂れ耳をくちびるで食みながら、あしたから何をしようかと想像をめぐらせた。
 小さくて大きな冒険がそこにあった。
 ジャックはそのほとんどを叶えてくれたように思う。

 ジャックが虹の橋を渡ってまもなく二十年が経つ。
 僕はあした、初めての自己主張をした愛娘に、新しい相棒をプレゼントするつもりだ。

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