ツイッターで書いた妄想物語まとめ15

4/23
文字数削減で地獄を見ている。大変眺めがよろしい。
頂点30cm四方のとんがり山から、ぐつぐつ煮えたつ文字たちの残骸へ手を振る。
膨れては弾けるマグマの表面では、惜しかった文もゴミだった文も平等にとろけて、最初からこの世界になかったみたいに知らんふりしてもよいことになる。
そうなればいいのに
4/24
初対面の女の子に、こんなことを訊かれた。
「おなかが痛いとき、あなたは神に祈る派ですか? それとも、いっそ殺してくれと願う派ですか?」
「ええと……神仏混淆派です。もう誰でもいい、なんなら超自然のパワーでも月でもくじらでもいいから助けてくれと思います」
「なるほど」
彼女はゆっくりとまばたきしたあと、あごに手を当てて言った。
「祈りって通じると思いますか?」
「はい。願っていれば叶うと思います。どれだけ時間がかかっても、いつかはトイレから出られますので」
「なるほど」
彼女は大きくうなずくと、真顔のまま首をかしげた。
「トイレを出たあと、神の存在を信じますか?」
「いえ。我に返ると、腸の動きだったなって思うので」
「そうですか。ではわたしの布教は失敗です」
彼女は頭を下げ、去って行った。
なんだったんだ。秘めたる力でもあったのか。
ここから僕は彼女から目が離せなくなり、結婚し、75年連れ添って、きょうこの旅立ちを見送るに至ったのだった。
(了)
5/1
朝起きたら夢見が悪くて、まどろんで二度寝して、また起きたところで現実がクソで、これなら地味に変な悪夢の中の方がいくらかマシだった。
……というのが彼の言い分で、その言い方がいまにもあれな感じだったので、思わず遅刻をおとがめなしにしてしまった。
僕だって誰だってクソな朝を迎えることはあるし、きょうも列車を走らせている惑星間エクスプレスの車掌さんや、月を上げ下げしたり羊に電池を入れる作業員さんたちも、本当は規則的な朝に辟易しているかもしれない。
僕たちのなんでもない日常は、クソみたいな朝を受け入れることから始まるものである。
そんな悟りめいたものを得た朝だった。
(了)
5/3
僕はあの日、死を回避するためにあらかじめ小さな痛みを引き受け入れることについての思案に暮れていた。赤ちゃんのBCGから筋力増強のスクワットまで、僕らはいつも、痛みと引き換えに死を先延ばしにしようとしている。
露骨に死にそうな疫病に罹りたくはなかったし、大型連休の中日を注射とその副反応で潰したことについて、これといった後悔はなかったと思う。ただ、だるい体を引きずりながら、この小さな犠牲が功を奏したかについては、全てが収束したときにしか分からないのだということは考えていた。
予防が報われて欲しいという気持ちは、人をやたらに前向きにしたはずだ。仮に罹ったとしても、軽症なら「こんなもので済んだ」と思うはずだし、中程度なら「死なずに済んだ」と思うはずだし、死んだとしても「やらないよりは少し長生きだった」と思えるのだろう。
そんなことを考えていたあの日のことを少し懐かしく思っているのが、20XX年現在の僕である。
(了)

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