冷やす三日、お別れの五分、美しかった三分、燃える四十分

制限時間:1時間 お題:宗教 プロポーズ メリーゴーランド

 人間が死体でいられる時間は、せいぜい三日だ。
 それだって、火葬場の混み具合で決まる程度のもので、神聖な意味があるわけじゃない。
 大多数の日本人は、自分の大事な人の死を、特定の宗教の思想に当てはめようなんて思わない。
 遺された側の人間の執念が、数日のあいだ、死体を地球上に存在させる。
 放っておけばゆるやかに溶けてゆく体を、ガンガン冷やして崩れないように形を保つ。

 そうして必死に自然の摂理に抗って引き延ばした先にあるのは、燃やすという行為なのにね。

「里香、里香」
 目の前の棺に納められているのは、僕の恋人だ。
 元々白い顔の彼女だから、ほんのり死化粧を施されていれば、寝ているのとさして変わりない。
 ヒトと呼ぶべきかモノと呼ぶべきか微妙な形で横たわっていて、もう何を話しかけたって聞こえないことは分かっているのに、呼びかけずにはいられない。
 火葬するまでのあと五分で一生分名前を呼ばなければ、のちの人生をずっと悔いて生きることになるような気がした。
 その一方で、最後くらい、彼女のかたわらで静かに思い出に浸るべきなのかもしれないとも思う。
 地球が消滅する五分前の方が、よっぽど簡単だ。
 どうせ死ぬのだから、その先はないのだから、どうしようが誰も覚えていないのだから、ベストの終わり方じゃなくても全然いい。
 ……そんな思案に費やしたこの五秒も彼女に使うべきだったと、ほんのり後悔したりして。

 プロポーズもさせてもらえないまま、彼女はあっけなく事故死した。
 就活が終わって、無事内定が取れたら、結婚観についてちょっと探りを入れてみようかな……なんて思っていた。
 プロポーズの期限が大体三十五歳くらいだと思っていた僕はばかだ。
 人は次の瞬間にでも死ぬのかもしれないのだということに、どうして気づかなかったのだろう。
「里香。ごめんね」
 貴重な最期のお別れタイムに、謝罪なんか全然求めてないだろう。
 もっと、彼女の幸せを願ったり、安らかに眠れるような言葉とか、そういう言葉をかけた方がいいのだと思う。
 でもそんなのは出てこない。
 僕は、里香の安らかな眠りなんか、全然願ってない。
 本当は泣いてすがって駄々をこねて戻ってきてくれるなら、いますぐ元に戻して欲しい。
 僕たちは、メリーゴーランドに乗っていたじゃないか。
 地面に平置きされたかぼちゃの馬車だったから、馬のように上下して世界が変わって見えるわけでもなく、二人並んで座って、メルヘンチックな音楽を聴きながら、地面スレスレの視界で柵の外の人々の足を眺めるだけの三分だった。
 意味がなくて楽しくて、里香と居るときはそういう無意味な空気が大好きだった。
 いまこんな、意味まみれのお別れを待つのは、全く僕ららしくない。
 一番高く上がった馬から落ちてきた子供を助けた彼女の死には、大きな意味が与えられた。
 助かった子供の命、事故の再発防止、運営企業の暴露、新しく法律を整備すべきなんじゃないかなんて議論まで。
 彼女の死があまりに美しく、また、彼女自身の容姿が美しく、仲睦まじかった僕らカップルが慎ましやかでも幸せそうで理想的で悲劇的な事故で、だから何だっけ? あとなんだっけ?

「お時間です」
 葬儀スタッフに声を掛けられ、僕は黙って席を立った。
 最後の最後に棺の横に居るのはご家族に譲べきだと思ったから、僕はそっと離れた。
 涙を堪えるお兄さんの後ろにそっと立ち、棺が閉じるそのときまで、彼女を目に焼き付けようとした。
 僕らが一生懸命冷やして形をとどめた、彼女の死体。
 生きていない彼女の顔を一生懸命覚えたって、それは本当のものじゃない。
 最期の瞬間なんて、彼女が死んだメリーゴーランドの中で、とっくのとうに迎えているのだし。
 勝手に地球上に引き止めた数日を経て、生きている僕や家族や火葬場の都合の良いタイミングで、彼女の死体は燃えていった。

 窯の中で膨らんで弾ける皮膚や肉が思い浮かぶ。
 それすら抱きしめたいと思っていることが愛の証になるなら、そんな感じでお願いしますと、彼女に呼びかける。
 天国に向かって言えばいいのか、空の途中の空気に向かって言えばいいのか、目の前の窯に向かって言えばいいのか――そんなことさえ曖昧な、燃える君に思いを馳せる、四十分間は。

(了)

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