この瞳にあなたは映らないけれど

お題:ぬいぐるみ、パン、深夜 制限時間:1時間

 古今東西、ストーカー男が盗聴器を仕掛けるものは、ぬいぐるみと相場が決まっている。
 女性の皆さん――いや、いまどきは男性であろうとなんであろうと等しく注意をすべきだが――は是非とも、職場で開かれた誕生日会でぬいぐるみをもらったら、一度お尻をみて欲しい。
 縫い目がおかしくないか……と。

*

 奈々は今宵も、ぬいぐるみに向かって話しかけていた。
「ねえ、パンくん。あしたは料理教室に行くんだあ」
 水色のくま・パンくんのつぶらな瞳には、奈々の微笑みが映っている。
 社会人一年目。幼い顔立ちで、あどけなさの残る笑顔。
 もちろん、パンくんには盗聴機能しかないので、黒いビーズに映り込んでいる満面の笑みは、ストーカーには見えていない。
「十一時から料理教室で、かぼちゃと鶏肉のキッシュを作るの。そのあとはちょっと本屋さんに行って時間を潰して、一時半から映画。夜は彼とデートで……ようやくね、ようやく。殺すの」
 奈々はパンくんを胸に押し付け、ぎゅーっと抱きしめながら言った。
「彼が、横浜のホテルを予約してくれたの。最上階よ。素敵でしょ? 死に場所として。支配欲丸出しで高級ホテルなんかとって、虫唾が走るわ。深夜、〇時になった瞬間に殺す予定」
 奈々はパンくんの頬をむいむいと伸ばす。
「どうしよう、パンくんも来る? 職場の人にもらったぬいぐるみなんか持っていったら、彼、嫉妬で怒り狂って勢い余って襲いかかってくるんじゃないかしら。そしたら、こんな手の込んだ偽装工作なんかしなくても、正当防衛で殺せちゃうかもね。ふふっ」

*

 松井聡、三十歳。彼はいま、人生の大ピンチを迎えていた。
 ストーキングしていた女性が、自分の仕掛けた盗聴器に向かって、余すことなく殺害予告をしているのだ。
『――その睡眠薬を部屋にばら撒いてえ、』
 聡はぶるぶると震えている。ハンドルに乗せた手が滑って、いまにもクラクションを鳴らしてしまいそうだった。
 奈々のマンションの下に停めた、小型車。
 リアルタイム型の盗聴器を傍受するには、百メートル以内の場所にいなければならない。
 なので、聡は毎晩こうして、パンくん越しに奈々の吐息を感じながら、ベランダから漏れるあかりを眺めていたのである。
 それがまさか……いや、どうする?
 愛する女性が、あした、人の道を外れようとしている。
 相手はいけすかない社長の次男だ。
 聡のことを意味もなくいびっているので、死に値するという点では奈々に同意したいが、殺すとなるとまた別である。
『部屋はー……えーっと、六十七階。あ、一部屋だけなのね、このフロアには! やっぱり死に場所にふさわしいわ。ねえ、パンくん?』
「ど、ど、どう……、どうしよう。止めた方がいいいいいのか?」
『ぱーんくん。あーあ、パンくんが返事してくれたらいいのにな』
 僕だって、返事したいさ! と、聡は叫び出しそうになるのをこらえる。

 結局聡はその晩、彼女の部屋に侵入して犯行を止めることもできず、泣きそうになりながら家に帰ったのだった。

*

「奈々」
 石島は、サラサラヘアをなびかせ、ちょっと片手を挙げた。
 横浜駅の改札前、柱に寄りかかる姿に、道ゆく女性たちが視線を向けている。
 しかし石島の見つめる先には、もこもこのマフラーを巻いた、可愛らしい奈々の姿しか映っていない。
「ごめんなさい、おめかししてたら遅くなっちゃって」
 嘘だ、と、聡は思う。奈々はついさっきまで、B級スプラッタ映画を見ていた。
 ポップコーンを食べすぎて、ディナーが入るかなと心配していた。
 ……カバンの中のパンくんに問いかけながら。
 聡は、ふたりに見えない柱の影から、じっとその様子を見ている。
 石島は、慣れた様子で奈々の腰に手を回し、さりげなくエスコートし始めた。

 半径百メートルというのは、おそらく、読者諸氏が想像するよりはるかに狭い。
 ストーキングと呼ぶには大胆すぎる距離であとをつけているのだが、きょうばかりは仕方がない。
 奈々は深夜にホテルの個室で殺すと言っていたが、何がどう変わるか分からないのだ。
 スプラッタ映画は、距離の関係上一緒に観ざるをえなくて、吐きそうになりながら観た。
 あんなものを好むなんて、きっとモラハラ彼氏を惨殺することになんの躊躇いもないだろう――これは聡の偏見であって、作者の意図するところではない。
「奈々、ちょっとスカートが短いんじゃないか?」
「そう……? 石島さんに褒めてもらいたかったんだけど」
「ふしだらだな。そういうところは良くないから、新しい服を買ってあげよう。おいで」
 クソッ、死ね。でも、奈々さんが殺すのはまずい。
 聡は頭を抱える。
 入っていくのは高級ブランド・クロエの中なので、パンくん越しに傍受することもできず……。
 ヤキモキするうちに、新しいスカートを身につけた奈々と、両手いっぱいのショッピングバッグを抱えた石島が出てきた。
 くるりと回ってみせるその姿のなんと愛らしいことだろう!
 ……と思った、その時だった。
「きゃっ!」
 奈々の手から、ハンドバッグが滑り落ちる。
 そして、地面の上に、パンくんが転がる。
「奈々……? これは、いったいなんだい?」
「あ、えっと。えっと。これは、職場のひとたちに誕生日プレゼントにもらって……気に入ってて……」
「俺以外にもらったものを持ち歩いているのか?」
「ごめんなさい。気に入ってるの」
「だめだよ、そんなもの。捨ててきてあげよう。貸しなさい」
「いや! パンくんはだめ!」
 奈々がきっと睨みつけると、石島は鬼の形相に変わった、
「俺に歯向かうのか?」
「そうよ! わたしは、わたしは、きょうこそ……っ」
 奈々が、地面を這う。手繰り寄せた鞄に手を突っ込む。
 聡はとっさに駆け出した。あの中には、サイレンサー付きの拳銃が入っているのだ。
「奈々さん! ダメだ! 撃っちゃだめだ!!」
 両手を広げて奈々の前に飛び出すと、そのまま抱きしめ、ふたりは地面を転げた。
「っ!? 誰だお前!?」
 石島が目を剥く。真っ赤な顔で怒鳴り散らしてくる。
 聡は必死で奈々の頭を抱え、守った。
「僕は、僕はっ、奈々さんのストーカーだ!」
 言い切った瞬間、腕の中の奈々が、嗚咽を漏らして泣き始めた。
「……あなたが、松井さんが、パンくんの中の人だったのね」
「え?」
「嬉しい。あなたなら絶対、わたしのことを止めてくれると思った。彼を殺すって言えば、こんな風に、絶対にわたしのところに来てくれるって、信じてたっ」
 奈々の柔らかな胸が当たる。聡がそっと見ると、カバンの中に拳銃なんてなかった。
 聡が目を見開くと同時に、頭の上から、石島の怒号が降ってきた。
「てめえッ! 殺すぞ!!」
 豹変し恫喝してくる石島から、聡は奈々を必死で守る。
 そうこうしているうちに、誰かが呼んだ警察が割って入ってきて、クロエのベルトを叩きつけようとする石島に、手錠をかけた。

*

「すみませんでした。奈々さん。僕はずっとあなたの生活音を聞いていて。だから、その、け、警察に言ってくれても……」
 全てが去ったあと、聡は、震えながら頭を下げた。
 しかし奈々は、にっこりと微笑み、聡の手を取る。
「ううん、いいの。パンくんの中の人がどんなひとなのかは分からないけど、きっとありのままのわたしも受け止めてくれるし、一緒にB級映画も観てくれるかなって思ってた」
 奈々は聡を抱きしめる。
「ずっと傍受しててね。ずっと、わたしの話、聞いててね」
 パンくんの黒い瞳は、ふたりが口づけする姿を映している。

(了)

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