疫病と、開けなくてもいい箱の鍵

 原因不明、治療法なしの疫病が流行って、五年が経った。
 視線がかち合うと感染するという恐ろしい病、マグマグラ病。
 罹ると、頭に溶岩を流し込んだような高熱と激しい頭痛が続き、視界が真っ赤に煮えたって見えるのだそうだ。
 厄介なことに、このマグマグラ病は、感染した人が必ずしも発症するとは限らない。
 無症状患者が意図せずばら撒いてしまっているために、世界中でパンデミックが起きて、未だ収束のめどが立たないのだ。

 正月明け、東京。
 男ふたりでルームシェアをするアパートに、覚えのない小包が届いた。
 差出人は、すずらん旅館。品名には『医療器具』とある。
 髪がモジャモジャの大学生、上井(うわい)は、三十センチ四方の薄い箱をコンコンと叩きながら言った。
「受け取り拒否すればよかったっすね。どうします? 開ける?」
 上井の三つ上、眼鏡のサラリーマン静木(しずき)は、神妙な面持ちでスマホを眺めながら答える。
「これ、マグマグラ病の検査キットらしいぞ。すずらんリゾートでクラスタが発生したらしくて、泊まった客の世帯に配ってると」
「えーまじすか。ニュース見てないから知らなかった」
 上井は静木のスマホを覗き込み、ひょいと眉を上げた。
「やった人いるんすかね」
「ああ、SNSのトレンドになっている。偽物でもなさそうだし、とりあえず開けてみようか」
 上井がガムテープを雑に剥がして開けると、簡素なキットが入っていた。
 液体が満たされた試験管二本と、小指の先に乗る程度の小さな錠剤がふたつ。
 紙切れの説明書きにはこうある。

試験管に唾液を入れ、よく振り、錠剤を一粒入れてください。数秒で色が変わります

青色…陰性。そのまま普通ごみに出してください
赤色…陽性。最寄りの保健所に電話連絡のうえ、当キットを持って速やかに受診してください

 上井は眉間にしわを寄せた。
「ほんとにちゃんと結果出るんすかね? 病院で検査受けたら五万とかするんですよ? しかも唾だけって簡単すぎるし」
「まあ、大企業から配られているものだし、全くのデタラメってことはないだろう。やるかどうかは任意みたいだがな」
 ふたりの間に、沈黙が流れる。
 ややあって、静木が口を開いた。
「……やるか?」
「いやあ。これってなんか、超お節介な人間から『開けなくてよかった箱の鍵』が送りつけられてきたみたいなもんじゃないすか」
 突拍子もない発言に、静木は首を傾げる。上井は続けた。
「俺たちはいま、なんも症状がないわけです。でもやってみて赤くなっちゃったら、隔離入院になりますよね。やらなければ普通に暮らせる。開けなければ箱の中身は分からない。でもいまこうして、頼んでもいない鍵が送られてきて、さあ箱を開けろと言われてしまった。もちろん開けないこともできますけど、でも、もしいま開けなかったせいで、のちのち周りの人に迷惑をかけたら?」
 上井の意図を汲んだ静木は、額に手を当ててうつむいた。
「ずいぶんと人の倫理観を揺さぶる『任意』だな」
「俺も静木さんも、お年寄りにばら撒いている可能性に目を背けられない程度の責任感は、一応持ち合わせてるわけじゃないすか。ひでえ話です。こんなもん送ってきてんじゃねえよ」
 嘆く上井の横で、静木は、直筆の手紙が入っていることに気づいた。

 せっかく当館へご宿泊いただきましたのに、ご心配をおかけして申し訳ありません。静木さま、上井さまが陰性であることを、心よりお祈りしております。
 すずらん旅館 客室係・田中

「クソッタレ! 田中ちゃんかよ!」
 一番可愛かったはずとふたりで意見が一致した、田中ちゃん。静木が長いため息をつく。
「手作業で詰められたと思うと、やらないことへの罪悪感が半端なくなるな……」
「くそ……。大企業が保身のために一斉送付してきたんなら、まだやらない選択肢もあったのに。きっとあの優しそうな女将が気を利かせて、仲居さんみんなで手分けして書いたんすよ。心から心配して。あー、鍵が箱にぶっ刺さった状態で送りつけられてきた!」
 上井が頭を掻きむしるのを、静木は無表情で見つめる。
 三分、五分……うんうんうなって悩み尽くした上井は、雄叫びのように天井を仰いで叫んだ。
「もーいい! やります! やってやりますよ! やって陽性だったら地獄っすけど、やらずにもやもやしたまま暮らすのも地獄だし……もう、ごちゃごちゃ考えんの、めんどくせえ……」
 言葉とは裏腹に、上井は涙を流す。
「わかった、いっせーのでやろう。一蓮托生、沈む泥舟だ」
「縁起でもねえっす……」
 ふたりは試験管を手にとり、キャップを回して開けた。
「いいな? いくぞ? せーの」
 ぺちょ。
 間抜けな音とともに、開けなくてもよかった箱の鍵が回された。
 説明書通りに、キャップを一旦締め、泡立たないようにゆっくりと横に振る。
「覚悟はいいな? 入れるぞ?」
 静木の呼びかけに、上井は泣きながらうなずく。
 キャップをとり、錠剤をぽつりと入れると――
「青! 青っすよ!」
 ふたりの手の中にある試験管は、澄んだ空色の液体で満たされていた。
「ああー……、」
 冷静だった静木が、脱力する……と、かたわらに置きっぱなしになっていたスマホが鳴った。
 静木は感動のまま、自動応答的に電話を取った。
『静木さまのお電話でしょうか。わたくしすずらん旅館の田中と申します』
「あ、田中さんですか? 静木です。キットを送っていただきまして、ありがとうございました。おかげさまで陰……」
『大変申し訳ありません。実は、お送りしたキットの一部に、検査用の錠剤ではなく製品テスト用の偽薬が混入していたと、メーカーから連絡がありました」
 えっ!? と、静木が声をひっくり返す。
 上井は何事かといった表情で目を丸くしながら、静木の耳とスマホの間に指を滑り込ませ、スピーカーにした。
『――静木さまと上井さまにお送りしたものがどちらだったのかは、わたくしどもでは分かりかねます。ですので、結果が陰性でも、念のため医療機関へ受診していただければと存じます。もちろん、任意ですが……』
「任意」
『はい。お手数をおかけして、誠に申し訳ありません』
 しばしのやりとりののち、静木は電話を切った。
「どうする。お前の良心は何と言ってる?」
 問われて、上井はうつむいた。
 そして震える声を絞り出す。
「…………静木さん。俺、泊まってた三日間で、一回も田中ちゃんに目合わせてもらえなかったんすよ。もちろんマグマグラ対策だってのは分かってるんですよ? ルックアウェイ、目をそらす。感染症対策の基本です。でもさ、でもさ? ちっとくらい? 合ってもよかったじゃんとか?」
「おい!? お前、こっち来んな! こっち見んな! いままでの苦労が水の泡……ッ!」
「どうせ感染なんかしてませんよ。俺、学校の友達とか誰ひとり顔覚えてないくらい見てませんもん。だから静木さんの頭が煮えたぎるまで俺は受診しません。ほら! さあ、見て! 俺を見て!」
「やめろっ、うわっ」
 視線がかち合う。
 ふたりは初めて、お互いの顔をしっかり見た。
「……あれ。静木さんって、けっこうイケメンっすね。田中ちゃん、チラチラ見てた気がしてきました」
「そうか? あえて眼鏡を外していたし、客とも従業員とも、誰とも目は合ってないと思うが」
「怖くないんすか? 自分見えてないのに目合ってたらとか」
「正常な視力で、目が合ったことを自覚する方が怖い」

 開き直って見つめ合うふたりの手の中には、開けなくてもいい箱の鍵が握られている。
 無意味な青い液体は、体温を移してぬるくなっていた。

(了)

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