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新刊『ベトナム近代美術史』あらすじ

今月頭に、新刊『ベトナム近代美術:フランス統治下の半世紀』(原書房)を上梓した。10年間以上もかけて調査・執筆した論文「安南藝術からベトナム美術へ」(東京大学大学院 提出)の書籍化だ。ちょうど、娘が生まれる一年前から研究に手を付けた始めたのだが、産後すぐに中断した。育児をなめていたのだ。夫に定期収入がないこともあり、働きながら書く必要があった。論文は、先の見えないマラソンのようだったが、友人、恩師、家族の協力が身に沁みた。途中、住友生命から奨励賞の助成金をいただいき、ありがたくて涙が出てしまった。東京大学からは出版助成のための「第一回而立賞」をいただいた。
500頁もある。以下が、すごく簡略化した概要だ。

画家不在の近世ベトナム

初めて「美術」という言葉に出会った東アジアの人々は、何を想像するのか? 一体、ベトナムにおける「美術」の近代化とは、どのような現象であったのだろう。この研究は、こんな疑問から始まった。
ベトナムは、紀元前 111 年に漢の武帝に征服されて以来、11世紀までのおよそ千年にわたって中国の支配下に置かれてきた。つまり、圧倒的な中国の影響があったわけだ。しかし、日本や中国と異なるのは、「画家」が不在だったという点である。絵付け・版画を製作する職業的な絵師はいた。だが、固有名を持った「画家」はほとんど確認できない。日本でいうところの狩野探幽とか、歌川広重とか、尾形光琳などがいないのだ。「絵画のための絵画」という概念は、ベトナム前近代においては極めて希薄であったと言える。

「美術」との邂逅

その後、ベトナムがBeaux-arts いわゆる「美術」なる概念に出会ったのは、フランスの統治下だった。なかでも、インドシナ美術学校(École des Beaux-arts de l’Indochine、1925年開校)の存在は大きい。先行研究では、ベトナムにおける美術・藝術の近代化は、「職人(artisan)」から「アーティスト(artiste)」へと変更をさせたこの学校の創始者、ヴィクトール・タルデュー(ジャン・タルデューの父)に多くを負うとされている。インドシナ美術学校の存在が、ベトナム「美術」に大きなインパクトを残したことは否定できない。だが、この学校の設立をもって、ベトナム近代絵画「元年」とする位置づけは果たして正しいのだろうか。フランスが植民地に「美術」をもたらし、「近代化」させたという見解は、あまりにも単純すぎないだろうか。そのことを考えるためには、ベトナムの人々にとって「美術」という言葉が新しい翻訳造語であったことを踏まえ、原語との間にどのような記号論的なずれ、文化的差異があったのかを確認しておくことから始めるべきだろう。

本書の目的

 かくして、1887年から1945年までのフランス統治下、この時空において、「美術」を巡ってフランスとベトナムの駆け引きが始まる。本国と植民地、前近代と近代、東洋と西洋、幾重にも交錯しているゆえに、その実態がわからなくなっているベトナム近代の「美術」を読み解き、そのありようを描き出していくことが本書の目的となる。
 その道中、本書は、日本との関連にも言及した。第二の「ジャポニスム」的な東洋藝術ブームを仕掛けたかったフランスがベトナムにおいて手本としたのは、日本の工藝や装飾であった。実際、フランス人たちは日本人講師をハノイに招いて工藝指導をさせている。岡倉覚三によって推薦されたのは、石川浩洋と石河壽衛彦。また、美術学校の学校長がフランスからベトナムへと持ち込んだ書籍のなかには北斎や歌麿といった日本の浮世画集もあった。  時は過ぎ、1940年以降に日本軍が進駐すると、ベトナムの「美術」創出に関して、日本も関与し始める…。

粘りに粘っただけあり、世界でも類を見ない研究ができたと自負している。

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 上のようなことを書いたのだが、後半には、画家たちの営みや絵画分析もある。


ナム・ソン(南山)。フランス留学を経験し、「ベトナム絵画」の可能性を切り開いていった人物。

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南山《我が母の肖像:家慈近像》1929年、キャンバスに油彩、95×60㎝、旧マセ・コレクション


アジア人初のフランス藝術家協会会員レ・ヴァン・デ(黎文第)。

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黎文第《マリ・マドレーヌ》エリオグラヴュール、10.8×7.5㎝。1932年に絹画で描かれた《十字架の下のマグダラのマリア》(ヴァチカン美術館)の版画版。ヴァチカン版を見たことがないので見てみたい・・・。


フランス人たちがこぞって収集した人気画家、グエン・ファン・チャン(阮藩正)

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阮藩正《小鳥に餌やる幼子》1931年植民地博覧会出展作。絹本着色、65×50㎝、旧モラックス・コレクション。雰囲気は東洋風だが、構図などはフランス流。

オリンピア・ル・タンの祖父、レ・フォー(黎譜)

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黎譜《聖母子像》1938年、絹本着色、62×46㎝、個人蔵。ちなみに、彼の息子は、Pierre le Tan. 根強い人気を持つイラストレーターだ。


浮世絵風の美人画を得意とするマイ・トゥ(梅忠恕

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梅忠恕《髪を整える女性》1942年、絹本着色、31×22㎝、個人蔵。この作品は、浮世絵の大首絵の構図を利用したもの。

ベトナム文学金字塔『金雲翹』の視覚化を追いつづたヴ・カオ・ダン(武高談)

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武高談《二人の姉妹》1939年、絹本着色、34×26㎝、個人蔵。姉妹の手の表情など、観音様風。


最後になったが、素敵な本にしてくれた原書房のOさん、装丁のMさんに改めて感謝したい。

最後まで読んでいただき、感謝。

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