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Netflix「新聞記者」偏りと正しさ

 映画版の感想はこれ。

 映画版の「新聞記者」を見たのは劇場ではなく、「ヤクザと家族」を見た後の話だった。つまり2021年に入ってから見たことになる。劇場公開は2019年。あれから年数にして3年の時を経て、再度Netflixシリーズでドラマ化されるという話を聞きつけた私は、それが「セルフリメイク」という言葉で表現されるのに若干の違和感を持った。
 というのも、このドラマ版からは映画版の「新聞記者」が抱える闇、ままならなさ、閉塞感とはまた違ったアプローチを感じたからだ。確かに世の中闇だらけであり、利権が複雑に絡み合い、それぞれの立場が利害を一致させながら物事を進めているのだが、それは誰しもが「よかれ」と思って動いた結果であるという(であるがゆえの)胸糞悪さがあり、うまいこといかんなあという世の中の難しさを思い知る次第でもある。
 たしかにいたずらに私腹を肥やすものが他を害する様は見ていて苦々しい思いをするものだ。しかし一方で民主主義および資本主義とは元来がそのようなシステムでもあり、一元的に富が偏重することによって民衆の生活に雇用や経済の面で良い影響を与えるという側面もあるだろう。作中におけるユースケ・サンタマリア氏の役がそれである(どうでもいいけど、最近のユースケ氏の役は肚になにかしらの狂気を抱え持った役が多くてたいへん良い。華やかに軽薄そうに凄みを出す役が似合う。素晴らしい)。
 だがそれに人が、社会を構成する一要素として「納得」をするかというと別問題だ。そして富を偏重させ掌握する人間は、大局的な利益のために他者を平気で踏み躙る。「その人」自身がそうしなくても、「その周囲」がそれを肯定し、集団で道を踏み外し、そのものが正史であり体制であるという佇まいをとる。だから人間は反発を覚えるのだ。理不尽に耐えられるほど忍耐強くもなく、己はともかく己の大事なものまでもが害され、矜持を傷つけられ、尊厳を失ってなお権力に迎合するのは、結論やはり権力に「守られている」からだ。そうでもなければおそらく人間は納得しない。好き嫌いの感情では飯は食えないのである。であるから、とりあえずの国民の「納得」を目指すことが政治の本道であるように思う。この作品で表現された不条理はそういう、人の「納得」を蔑ろにする強権とほぼ同義である。陰謀論や権力闘争ではなく、この理不尽と感情操作、忖度で罷り通してきた「ヘンなこと」に、それぞれの人物がそれぞれの立場で自分の意思を持つ話だった。これは意思の話なのだ。もちろん根底のところにある、かつて現実に起こった悲しい出来事への深く確かな怒りがあることは見てとれるし、そのものの固有名詞が出なかったとしても歴史的事実と重ね合わせて視聴者に考えさせることは十二分に可能である(日本のフィクション受容者はとりわけフィクションの事象を『現実に起きたこと』と絡めるのが得意である、良くも悪くも)。しかしおそらくそれは本質の一部に過ぎない。悲しい出来事はあくまでひとつの家族にとっての喪失の記憶に他ならない。ただそれに同調することが「考えること」ではなく、同じ社会に生きる他者としては別の視座でもって適切に怒ることが必要になってくる。このドラマシリーズは、そうした適切な「怒り」が様々な立場から丁寧に描かれる、ある種の群像劇としての価値も高い作品であったように思う。ここは明白に映画版とは異なる点だ。映画版はもうすこし陰謀論の向きが強く、エンタメ色が強く感じた。おそらくエンターテイメントにしようと思うとあれくらいのパンチが必要なのだろうし、そうした気風は同監督の「アバランチ」からも感じるところだった。ドラマ版がつまらないと言っているわけではない。ただ「たのしいだけ」のエンターテイメントでないと受容できない、フィクションをフィクションとして現実から隔絶したところに置きたい人々に、果たしてこの作品はどれほどの力を持って訴えかけただろうかと心配になる。おそらくそういう批判が出るだろうと思うし、そういう批判が出るくらい「わかりやすさ」ではなく「伝えたいこと」に主軸を置いたのだろうと思った。あくまで主観だが。
 地上波でやってほしいけど地上波だと集中を欠くだろうか。私はNetflixで一気見できるのが大変気に入っているのでこのままで良いし、配信の形態になんら不満がないけど、こういう作品が地上波で作られて賛否両論巻き起こす図も見てみたくはある。SNS全盛時代なのだからそれくらいあっても良い。そしてネタになりそうな案件は本邦いくらでも転がっている。悲しいことだが…
 3年の時の経過については新型コロナウイルス感染症の話題も入ってきて更に醜悪さが際立っていた。五輪の話題は個人的な感触で本当に申し訳ないが反吐が出そうだった。この嫌悪感と戦いながら今後の人生を生きると思うと2年に1度のペースで鬱にならなければならない。
 内定取り消しの件にも言及していた。大学生は高い学費を払いながら大半がオンラインで設備利用もままならなかっただろうし、就職は内定取り消し、新卒雇用枠の削減でかなりの苦戦を強いられただろう。就職氷河期と言われる世代に勝るとも劣らない20年後の経済停滞を思うと冷や汗ものである。どう対策するのだろう? そもそも対策するんだろうか?
 あくまでフィクションである。そしてこのドラマが荒唐無稽なフィクションであればどれほど良かったことか。そう思うに足りる濃密な一昼夜だった。ぜひいろんな主義信条の人に見てみてほしい。たぶん時間の無駄にはならない。

 キャストの話をすると、新聞記者役に米倉涼子さんを据えたのは大変とんでもなく大正解だった。立場はまるきり違えど、同じNetflixオリジナルシリーズで近日配信された「消えない罪」のサンドラ・ブロックを彷彿とさせる炎を感じたし、大好きで仕方ない「女は二度決断する」のダイアン・クルーガーにも通じるものがあった。日本には米倉涼子のような役者がいるのだと世界が知ることになる。胸が熱くなります。立ち回り、冷静な大人の物腰に見え隠れする熱、家族と過ごすときの柔和な空気。最愛の兄を誇り、それがゆえに御しきれない怒り、原動力となる激情へと転じてゆく様は迫力の一言に尽きた。
 同じことは綾野さんにも言える。家庭を持つ父の役は珍しいため食い入るように見つめてしまったが、子供がわりと2人とも大きかったので30代後半と見ていいだろうか。まだ若い。極めて優秀で、そして理念ある官僚。己の職務を遂行しただけだが、己の理念との葛藤に板挟みになる。苦悩しつつも手放せない両者に壊れていく。激情の表出はほんの僅かだったが、その2度だけがこれでもかと印象付けた。絶望の縁で踏み留まる熱演、家族という拠り所。それは吉岡秀隆さん演じる財務官僚とパラレルであり、彼我になんの違いがあろうかと想起させる。あくまでそれぞれの思う最大幸福を追求したのだと訴えかける力があった。あれほど苦しげな猫背で歩ける人はそうそういない。藤井監督作品に綾野さんがこれほど生きて実像を持つのは、背中の演技に様々な人の人生を載せているからではないかと思うほどだ。山本、羽生、村上のそれぞれの背中が同じ人の引き出しから発露していると思うと凄まじい。その背中を画角に収める藤井組の仕事ぶりも含めて幸福な刺激に満ちている。
 横浜流星さん演じる大学生もメインキャストのひとりであり、ドラマでその輝きを強く放った役でもある。この目線が藤井監督には最も近いらしい。そもそも映画「新聞記者」のオファーがあるまで新聞もほとんど読まなかった、関心なさ過ぎてオファーを2度断ったと知って私は衝撃を受けたのだが、そんな彼が追体験する「物語の世界の現実」はじつに苦く退屈で、友人が傷つき屈する姿をなんとか世に訴えかけようとする姿がなんとも痛ましく、そして勇気に満ちていた。無知な若者を仮託された形でありながら地に足ついた判断、確かに監督の目線を感じる。ある種の外野でありこの上ない当事者でもある彼の存在が、いかに物語に彩りを添えたかは一目瞭然である。
 メイン3人以外のキャストも藤井組にはお馴染みの、もしくは「いつだったかその組み合わせを見たことがある」組み合わせが揃っていて大変満足度が高かった。映画版と同名義での出演となった田中哲司さんもそうだし、先述の吉岡さんもそうだ。吉岡さんは「64」での名演も強く印象に残っており、その際の姿をも思うと涙が出た。いまや常連の寺島しのぶさんも素晴らしかった。新聞社の後輩役で出てきた柄本時生さんも味があってよかった。そして出番はわずかだが、橋本じゅんさんの出演時には思わず叫んだ。ああいう場にじゅんさんが居てくださるのはこの上ない僥倖である。語り尽くせないほど名演者が揃っており、そういう意味でもNetflixオリジナルシリーズの強さを感じた。
 キャストだけではない。製作陣もいつもの藤井組が揃っており、映像の質感でもはや今村さんの仕事とわかるほどである。適切な製作費がこのようなキャスト、スタッフに還元されて実現するのは喜ばしいことだ。自分は4年ほど前からNetflix日本法人に加入し続けているので、微々たる額ではあるが加入し続けて良かったと思えた。今後にも期待が膨らむ。お金を払ってフィクションを楽しんだ身なので、良かったと声高に叫んでいきたい。

 未視聴の方は一気見を勧める。私は2週目にいきます。話の展開を追うのにやっとだったので、細部を確認していきたい。
 綾野剛×藤井道人作品をすべて遡ってもいい。時系列で3人の男の背を追うことでまた新たな感想が出てくるかもしれないし。
 結局ここがきっかけで今こうなってるので、いつになくテンションが高い。ご容赦いただきたい。今回も最高でした。

 最後に好きだったシーンを紹介して終わりたい。亮(横浜流星)が最終面接で新聞とは何かを問われるシーンである。自分もかつて某新聞社の選考に参加したことがあるが、就業条件が合致しなくて最終的に辞退したことを思い出した。あのときもう少し自分が条件を再考していれば間違いなく今の仕事はしていないし、しかしそうなれば就業のタイミングでコロナ禍に直撃していたし、可能性としては繭の立場をとることもあり得た。人生とは些細な選択の積み重ねの結果に過ぎないと思わされる。そして亮が選考を進められたということは面接官だったデスクが亮の受け答えを評価したということであり、紋切り型な発言が目立った彼の真意の部分が明らかになる演出でもある。この役がじゅんさんでよかった。じゅんさんは何故かそういう、最後のところで人情を取りそうな気配を感じるので、やはり好きな役者さんなのである。いい。

 長々と語りましたが、きっと見る人の数だけ感想の出る作品だと思う。そういう作品を良い作品だと言っていきたい。
 今回はとりあえずこのへんで。またよろしくどうぞ。では。

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